第1章「イメージ」とは

今、世の中ではいろいろな出来事が起こっています。様々な事件はまさしく社会の「病気」で、その病気を治すために、たとえば決まりや罰則のような「薬」だけで社会は癒されるでしょうか。本当の意味で、社会が元気になるにはどうしたらいい?そのために必要なものは何?

その「本質=真実/Truth」を見つけ出し、決まりや罰則のような「薬」の効果を最大限発揮するためには、「何がこの社会に本当に必要なものなのか」を考え、「どうしたらこの様々な事件や出来事を前進の力に結びつけるのか」と考え、もっというと「よりよい終末」のためにいかに「よりよい生」を全うするのか、を考え(イメージして)行くことなのではないでしょうか。

See the whole world anew each day. Ah, the truth is, you’re well on the way.
/ すべての世界をいつも新しい視点で見てごらん、そこには真実があり、あなたはそこに近づける。

「新しい視点で見直す」ための力。それが「イメージする力」であり、今の現実や今の社会に潜む目の前の「直面する問題」だけに囚われているところから抜け出すために必要なのが、その向こう側を見る力……つまり「イメージする力」なのです。

The Power To See Invisible Things.(目に見えないものを見る力)

それが「イメージする力」。
そして、それが、「現実と真実とを結びつける力」。

「プラスのイメージ」は人に与えられるのを待っているだけではつかめません。前節で述べたように、今の世の中では「マイナスのイメージ」の方がずっと氾濫しているから。

では、どうしたら「プラスのイメージ」を得て真実に近づくことが出来るのか。自分がよい方向に向かうイメージをつかめるのか。

それには、この「目に見えないものを見る力」を自らでつけることです。自らが真実を見つける力を身につける事ができれば、人から「プラスのイメージ」を与えられなくても自分で「イメージ」することができるようになります。そうすることで自分だけでなく、自分の周りにもそのイメージは広がり、それが拡がれば、さらにより強い「プラスのイメージ」を生み出せるものが増えていき、そうしてプラスのイメージ同士がつながって拡がっていったら……やがて、そのイメージこそが「真実」になるのです。

「見えないものを見る力」をつけることは、決して難しいことではありません。
ただ、毎日の生活で、いろいろな物事に向かい合った時、心に一つの言葉を唱え続ければいいのです。

「これでいいのだろうか?このままでもいいのだろうか?いや、もっとよい答えがあるはずだ。」

疑うのではなく、真実を探し続けるのです。何がそこにあるのかを探るのをやめないことです。
それは今すぐ、誰にでも……あなたにも出来ることです。
そうして求め続けていくことによって、やがて「真実」は自分からその姿を示すようになるのです。

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Photo : Midori Komamura

(PATCH ADAMS : 1998 Universal Studios.)

6 「イメージ」はつなげる力。(1)

「パッチ・アダムス」という映画があります。その映画の中にこんなシーンが出てきます。

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( Patchの手をとり、指を4本立てさせて語りかける。)

Arthur
 How many (fingers) do you see?
/この指は何本に見える?

Patch 
 (There are) four fingers, Arthur.
/ 4本です。

Arthur
  No, no, no, no. Look at me.
/ 違う違う。私を見るんだ。
 You’re focusing on the problem. / 君は問題にフォーカスしすぎている。
  If you focus on the problem, you can’t see the solution.
    / 問題にとらわれると、解決策を見つけることはできない。
  Never focus on the problem! Look at me! How many do you see?
    / 問題にとらわれてはいけない!”私を”見るんだ! 何本に見える?

(指の向こうで語りかけるArthurを見つめると、指がぼやけて二重に見えてくる。)

Patch
  Eight.
/ ……8本です。

Arthur
 Eight! Eight! Yes, yes! Eight’s Good answer!
/ 8本!そうだ8本が正解だ!
 Yes! See what no one else sees. / そうだ!誰もが見ないものを見るんだ。
 See what everyone chooses not to see…out of fear, conformity or laziness.
    / 恐れや既成概念や怠惰などから人々が見ようとしないものを見るんだ。
 See the whole world anew each day. Ah, the truth is, you’re well on the way.
    / 世界を新しい視点で見直せば、そこに真実がある。君にはそれができる。

      (PATCH ADAMS : 1998 Universal Studios.)

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この映画は、実話に基づくものです。
「パッチ・アダムス」というのは今現在活躍している医者の名前。彼は、若い頃に自殺未遂を繰り返し、精神病院に自ら志願して入院。彼の本名は「ハンター・アダムス」ですが、その彼がこの風変わりな質問を投げかけた老人とのこのやりとりの中で、自分に与えられた「天命」を見いだし、そして医者、それも「心を癒す医者(patchするもの)」を目指して生まれ変わっていくきっかけを得た映画の最も重要なシーン。

このシーンは「イメージする事」の大切さをもまた、表現しているように思います。

「見えないものを見る力」つまり、イメージする事が出来る力を持ったら。「目の前にある問題」に囚われることなく見つめることが出来たら……そこには「Truth/真実」が見えるのです。

人は生きている。これはまぎれもない真実。
「パッチ・アダムス」という医者は、「人は生きて、いずれはまた土に返る」という真実の中で「病気を治す」というその根本にあるものを見つめ続け、「よりよく生きること」が「よりよい死」へと結びつくことを感じ、死の床にある病人でさえも「癒す」事が出来ることを証明し続けます。それは「病気を治す」という目の前の問題に囚われ過ぎることから解放され、「よりよい生」というイメージと、「よりよい死」というイメージの世界を結びつけることによるものなのです。

病気を治すために薬を求めることや、その薬を開発すること自体を否定するものではありません。現実問題として「病気の治療」に薬は不可欠なもの。けれど、そういう「目の前の問題」に囚われすぎて「なぜ薬が必要なのか」という本質を見失ってしまっては意味がないのです。

パッチの医療も薬を否定しません。むしろ彼の行為の意味は「薬の効果」を高めることにあります。

「人を癒す」というその行為にとっては、まず現実の病巣の駆逐や感染の予防や、治癒の力の補助という意味での薬の果たす役割は大きいし、それに関しての知識を持った医者や薬剤師、看護婦の役割も大きいけれど、その最終の目的は、病気に打ち勝ち、患者が元気になることであって病気が消えることではありません。病気に勝とうとする患者の意志、患者の気持ちという内的な条件がそこにあって、はじめて薬は最大の意味を持つものになり、最大の効果を発揮するのです。

この「薬」をたとえば「規則」や「伝統」に置き換えてみたら、と、ちょっとイメージしてみてください。

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Photo : Midori Komamura

(PATCH ADAMS : 1998 Universal Studios.)

飲酒運転の映像のような、「悪いことが起こる」事を前提としてのものは、もともと悪いことには抵抗を持っている人間に抵抗感や嫌悪感を増すだけです。それよりも「こうありたい」というイメージや「こうあったら幸せになる」という理想の状態やそこに至る方法を示される方が自然に「そうなりたい」とよい方へ流れていくでしょう。

ダイエット番組や健康番組で「○○が効く!」と放送された途端に、スーパーからその食品が忽然と姿を消す……この現象もその一例でしょう。自分がきれいになれる、健康になれる。そういう「明るいイメージ」を持つことが出来たのだったら、そしてそれが身近で手の届くもの(自分にも出来る!という実感の持てるもの)であればあるほど、人はたちまち自らをそちらに駆り立てるのです。「こうしなさい」と強要されなくても……。

大リーグですばらしい成績を収め続けているイチローが、イメージトレーニングを使っていることはもう周知の事実です。イメージの中で「正しいフォーム」や「あるべき状態」を作り上げる。それを繰り返すことによって無意識下で「そう動いてしまう自分」を作り上げるのです。それには実際の練習や努力はもちろん不可欠ですが、「良いイメージ」は身体に染みついていると実際の練習と結びついて反射的な反応として現れるようになるのです。身体がそのイメージに従って動くようになるのです。

「悪い占いは当たる」というのは、「逆イメージトレーニング」の例。「あなたには半年後にこういう悪いことが起こる」という占いを告げられると、心の中でそれをいつも繰り返すようになります。こうなったらどうしよう、困ったな……と思いながら常にそれを頭に描くようになり、そのイメージが常に頭を支配するので、いつの間にかその状態に向かって自分自身が流れてしまうのです。

こうやって見てくると今の世の中がなぜ明るい方向に向かえないのか、人が未来に希望を持てないのか、その理由が見えてきませんか。

つまり、世の中に暗いニュース、事件、そういうものばかりを流し、氾濫させることによって「世の中は悪いことばかりだ」というイメージばかりが毎日人の心に植え付けられているのです。自らの「良い方向」や「どこに向かえばいいのか」、「どうしたらそこに向かうことが出来るのか」を示すことの出来る方位磁石を、どこにも見つけることが出来ない人がとても多いのです。

「進むべき方向」としての明るい未来や、そこに向かう方法を示すことが出来る正しい“羅針盤”が人々の目にもっといつも触れるようになったら……「暗い未来」を示すものと、「明るい未来」を示すものがどちらも手の届くところにあるのだったら、人々は果たしてどちらを手にとるのでしょう。

それは、あなたにもすぐにイメージできることではないでしょうか。

father & child

Photo : Midori Komamura

5 「イメージ」活用の実例

「悪いイメージ」「マイナスのイメージ」は、人を恐怖やパニックに駆り立てる。
「良いイメージ」「プラスのイメージ」は、人にあこがれや生きる力をもたらす。

その観点で今の世の中を見てみましょう。

毎日メディアから垂れ流し状態の「ニュース」。事件性のあるものや、衝撃的なものが優先して取り上げられます。そしてその刺激はとても強いから視聴者もそれに食いつきます。

かつては人が殺されたり、自らの命を絶ったり、といった人の命に関する事件は「大事件」だったのに比べ、そういう類のニュースが余りに氾濫する現代はいつの間にか「人の命が消える」ことの刺激性が薄れてしまって、ゲームのバーチャルの世界ではもう「当たり前のこと」になっていますし、リアルな「死」も人々の中では次第に「日常のもの」というイメージになりつつあります。

人が交通事故で亡くなったくらいでは「またか」。免許講習で流れる飲酒運転による悲惨な事故の映像も、ある意味その「またか」のイメージを助長しています。あの映像を見て「自分も気をつけよう」と思うものはどのくらいいるのでしょう?見せつけられる悲惨な事故と悲劇に辟易し、その重い時間を「やり過ごす」事にしか頭が向かないというのが正直なところなのではないでしょうか。

たとえば。
あの映像を、「飲酒運転をいかに断るかの方法」の映像に変えたらどうでしょう。世の中、実際に車があって乗って帰らなくてはならなくても、日本という国は酒のつきあいを断ることに対して非常に抵抗が大きい国。「つきあいが悪い」とか「上司に従わない」と言われたら、いくら悪いこととは知っていても断れない人だっているはずです。それをうまく断る方法を伝授したり、良い対処の仕方を伝えたりして、それによって「よりよい明日」が待っている……という明るいイメージを伝えたらどうでしょう。

たとえば。
あの映像を、「事故時の人命救助」で人の命を救うものに変えたらどうでしょう?今、たとえばもし、目の前で事故が起こったとしても実際に周りの人間はどう動いたらいいか知らない人がほとんどです。救急時の対応を知っている人間が1人でもいれば「運が良い」。初期処置が命に関わる心拍停止などの緊急の時、とっさにどう動いたらいいのか、それによってどれだけの人が救われるのか、というデータを示し、それによって命を救われた人びとの言葉を聞いたら、「もしその場面にあったら自分もやってみよう」と思う者が1人でも増えるのではないでしょうか。

飲酒運転を断れず、それで事故が起きて人が死んで、「みんながこんなに不幸になるんだ」という暗く辛いイメージを延々と見せつけられ、後味が悪く胸が痛んだり不快になったりはしても、それで「自分も気をつけよう」と心から自らに言い聞かせるものはどのくらいいるのでしょう。たぶん、あの類の映像をみて「自分のこと」として受け取るものは皆無でしょう。「自分はあんな風にはなりっこない」と人ごとのように受け止める者の方が多いでしょう。人はもともと、悪いことからは目を背け、近づきたくないのが普通ですから。

それより「ああ、こうすればいいことがあるんだ」「こうすればうまくいくのだ、なるほど……」そういう方が、人は楽なのです。人は怒られるよりは誉められたい。人は悲しいことよりも嬉しい事の方が好き。もともとそれは人間の当たり前の心の動きです。

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Photo : Midori Komamura

4 「イメージ」の持つ力

今まで書いたように、イメージの持つ力というのはそれによって「それまでの常識」を覆してしまうほどのもの……ということは伝わったかと思いますが、実際にイメージの力の大きさを示す実例をひとつあげてみます。

1938年、アメリカで「火星人襲来」というラジオ番組が放送されました。その生放送は巧みな構成により、多くの聴衆者にリアリティーを感じさせ、恐怖を与え、実際に火星人が地球侵略を進行中であるのだと信じ込ませ、パニックを巻き起こしたとされています。

H・G・ウェルズの『宇宙戦争』をオーソン・ウェルズがラジオドラマ化した本作の放送中、何回か「フィクションである」旨は告げられたのですが、いったんイメージが生み出されたら、そしてそれが人にリアリティーを持たせることが出来たなら……つまり、イメージを「共有」することができたなら、「宇宙人の襲来」というあり得ない出来事が、世の中を震撼させることも出来るのです。

それが度を超すと時に「暴走」につながります。このラジオ番組の成功を知った別の放送局がいくつもこういう類の放送を模倣したそうですが、先陣切ったのがウェルズの事件の翌1939年4月1日、エクアドルの国営放送局がエイプリルフールの企画として、「火星人襲来」をそっくりそのまま模倣したラジオ番組の放送でした。

ところが、エイプリルフールという行事に聴取者が慣れていなかったこともあり、人々は恐怖に駆られて道路に飛び出し、街は大混乱となりました。そしてこれが作り話だと解ると市民は怒り、ラジオ局と新聞社を襲撃、建物を焼き払ってしまうという事態となり、21人が殺害(番組の出演者6人を含む)、プロデューサーが逮捕される、という悲惨な事件になってしまったそうです。

誤った「イメージ」の使い方は、このような悲劇を生み出すほどの破壊力ももたらしてしまう……そのくらい「イメージ」の持つ力というのは大きいものなのです。

なぜこの悲劇が起こったのか。それは「正しいイメージの伝わり方」をしなかったことと、その「与えられたイメージ」に対して人々がそれぞれ「情報確認」をしなかったこと。そこに時間的、環境的ないろいろな要素が絡んで来てこのような「パニック」になってしまったのです。

イメージというのは最初に述べたように「人の心の中に思い描くもの」と、「現実にあるもの、事実、情報」が結びついて生まれるもの。そのどちらかのバランスが崩れると「誤ったイメージ」による情報操作が可能になってしまいます。それを計算した人間が「意図的にパニックを引き起こす」ことも可能です。事実、「扇動」……人々を煽る……により起こった悲劇も歴史には数多く残っています。

けれど人間は愚かではありません。その力をバランスよく適正に使うことによって、実に様々な「文化」を生み出してきました。

たとえば、映像の世界。ファンタジーやスペクタクルのような「実際にない世界」をスクリーンいっぱいに描き出す人々がいます。それは明らかに現実のものではありません。けれど、その創り出されたイメージを受けとめた人々はその映像から与えられる「情報」をもとにさらにイメージを拡げ、実際のものではないその世界に生きるものたちに共感し、共鳴し、そして時に感動し、涙します。

映像、絵画、音楽、文学。「アート」といわれるものは、その作者の持つイメージを人の目に触れ、感じられるように表出したものですが、それらのイメージの表出の中に共感や共鳴が起こる時、「アート」は人に感動をもたらし、生きる力を呼び起こすのです。

「実際にこの世に存在しないもの」が、それぞれの人の心にある条件や環境を伴って働きかけると、それは「実在のもの」と同じか、むしろそれ以上の力を持って、時に生きる力になったり倒れそうな人を支えたりするほどの大きな力……命のエネルギーにもなることが出来るのです。

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Photo : Midori Komamura

「イメージを妨げるもの」は正しいとされること。
もっと言うと常識や固定観念であり、その常識や固定観念、そこの上に成り立った規則や権利の上に立つ人々。

「イメージすること」によって、人は多くの真実を見つけてきました。そこから自らの可能性を拡げてきました。けれど、それによって見つかる真実が時にそれまでの常識を覆し、正しいとされていたものを間違ったものに書きかえてしまうこともまた多くあります。それをおそれる存在………それが「イメージを妨げるもの」なのです。

今の日本の社会では、なぜイメージする力を育てていないのか。イメージする事を奨励しないのか。イメージする者が苦しくなっているのか。それは、真実を見る目や力を持つものが増えるのがまずいと思う存在があるからです。そしてそれらのものに与えられた「誤った認識」「操作された情報」によって多くの人がこのイメージする力を奪われ、イメージする事の必要性を感じないままに毎日の生活を送るようになってしまっているのです。

なにが正しいことで、なにが間違ったことなのか。
その基準を決めているのは、同じ人間です。

正しいことと真実は必ずしも一致しません。
真実は下手をすると正しいとされること、思い込みや常識とされること、に覆い隠されて見えなくなってしまうことが非常に多いのです。(たとえば推理小説などのトリックではこれをうまく使っていますよね。)

何が正しいのか、何が間違っているのか。
それを決めるのは人ではありません。歴史と、時の流れと、この地球の上のすべての現象なのです。

「これでいい」「このままでいい」「これが間違いない」。あなたもその考えからちょっとだけ離れてみませんか。そうしないと「イメージする力」は育たないしその必要性さえも感じられなってしまいます。

「なぜこうするのだろう」
「何でこうなるのだろう」

常に「これでいいのだろうか」と考える力を持つこと、そこからイメージする力は生まれるのです。

たとえばそれが規則だとしても、人が作った決まりは完全ではないし真理でもありません。その時の便宜上の決まりがただ続いているだけのこともあります。時の流れの中で周りの変化に追いついていないのに、ただ伝統とか慣例という看板に守られていまだに常識として居座り続けているものも山ほどあります。

規則や常識、正しいとされることをただ“そのまま受けとめてまったく疑わない”こと。
それが「イメージ」を妨げる一番の大きなものなのです。

そこに気が付いて今すぐ「自分で考えること」をはじめないと、あなたもその正しいとされることや規則や常識に囚われたまま、感情も心もなくただ規則正しく動くベルトコンベヤーに乗せられて、そこに起きる理不尽や不条理な事を受けながら毎日を過ごす自分を気が付かないうちに受け入れていることになってしまいます。

大切なのは、自らで確かめること。
自らの感覚を信じて、自分で考えて自分で動くこと。

……そう考えていくとイメージを妨げる最大の敵とは、本当は何でしょうか。

イメージできるあなたはもうおわかりでしょう。それは、常識とか正しいとか、規則といった誰かの作ったものに振り回されている自分に気付かず、周りを見ることをやめ、真実を探ることをやめて、あきらめ力尽きてしまった「自分自身の心」に他ならないのです。

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Photo : Midori Komamura

3 「イメージ」を妨げるもの。

しかし、このイメージから生まれ出てくるものは、本当にその意味を感じとってもらえるまでにはものすごく時間がかかり、理解を得るのには大きな困難がつきものです。それは前述した数々の理論や法則や実験が必ずしも最初から認められず、歓迎されるどころか迫害の憂き目にさえあってきた歴史が何よりも強く物語っているように思います。

宇宙は地球を中心に回っているという世の中から迫害され裁判を受けたガリレオ。1+1=1と言って劣等生扱いだったのちの発明王エジソンや、機械が空を飛ぶことを信じない人々から酷評されたライト兄弟

天才と言われる彼らのことを賞賛こそすれ笑う者は今では誰もいないけれど、当時はキチガイ扱いだったりバカ呼ばわりだったり……というのはそういう逸話がいまだに語り継がれていることからも全くの作り話ではないのだと思われます。もしくは、後生の人々はそういう「逸話」の中に自らの中にもあるかもしれないはずの可能性を「イメージ」したかったのかもしれませんね。「自分だって今は認められないけれど、いつかはきっと………」と。

いずれにせよ、これらの伝記や逸話や史実の中から読み取れる「イメージできる人々」に対抗してくるもの………それはまず「権力」や「権威」そして「正論」です。つまり、その時々で力を持つもの。更に言うと、その時の「常識」や「正しいとされる認識」の上に立って力を持っていたものたち。

ガリレオを迫害したのは教会で、その教会は神というものの絶対的な存在感を脅かす「科学」を認めるわけにはいかなくて。神の存在が脅かされれば、その神を絶対的なものと説く自分たちの地位や権威が堕ちる。それまで「正しい」とされていたものが「全く違う」となったら自らは嘘つきになり、言葉の重みがなくなってしまうわけです。「信じてもらうこと」が前提にある宗教ではこれは存続問題にも関わること。

エジソンを劣等生扱いした学校は、エジソンのいう「1+1が2にはならない」という言葉を説明できなかったわけで、それを前提に成り立ってきた学習内容が正しいと疑うことなく教えてきたのに、それを「違う」「間違っている」という生徒(教えを受ける立場のもの)を許すわけにはいかなかったのでしょう。だから“教えたことが理解できない”エジソンを劣等生・はみ出しもの、にした。(こういうことは、今でも学校だけでなく、家庭や会社でも多々起こっているように思います。)

機械が飛ぶわけがない……という認識も、その当時は“正しいこと”でした。ニュートンの法則のように「身近に起こる目に見える現象」を突き詰めて、そこにどんなことが起こっているのかをわかりやすく解明すれば人々は感心して納得するでしょうが、小さなりんごでさえも落っこちるのに、機械のような重たいものが空に浮かぶことは実際の現象としたら「あり得ないこと」。その常識を破ること、覆すことがいかに困難なことだったことでしょう。もしライト兄弟の飛行機が本当に飛ばなかったら、彼らはただの「大ボラ吹きの大嘘つき」になってしまったことでしょうね。

彼らの訴えた「真実」は、それがきちんと実証され、それが「常識」として取って代わるまでは非常識であり得ないものとして非難されつづけました。その根拠がどこにあるのかと言ったら、「それまでの常識」……つまり、人が創り上げた偶像に過ぎないものですが、それが正しいと信じるものにとっては、そしてそれを信じるものが多ければ多いほど、その力が強大でいかに大きな壁となるのかは歴史がしっかり物語っています。

この世界は果てしなく大きく、どこまで拡がっているかを私たち人間は未だに知ることは出来ません。それなのに、そのちっぽけさをいつの間にか忘れ、「人に出来ない事はない」と見えるもの、わかることの限界を忘れてしまうのもまた人の弱さなのかもしれません。繰り返される歴史の中に、そういう人間の弱さも小ささも、すべてが映し出されているのです。

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Photo : Midori Komamura

妄想や空想は、時に根拠のない理由に基づくことや思い込み(時に病的だったりもします)から来るものであるのに比べ、想像から来るものは多くの人に役立ったり、多くの人を感動させたり、多くの人に影響を与えたりもします。

たとえばりんごが落ちることから発見されたニュートンの万有引力の法則。たとえば入浴中に発見されたと言われているアルキメデスの原理。コペルニクスやダビンチ、ガリレオらが唱え続けた地動説。そういう世の中を変えるような法則や理論から、テレビ、電話、ラジオなど今私たちの身のまわりを便利にしている多くの発見、発明まで……。それらのすべては「見えない何かがあるのかもしれない」、「こんな事が出来たらいいのに」(まるでドラえもんのテーマソング!)などの「イメージする力」が生み出したものですよね。

「目に見えるもののように、すでにあるものを説明すること」は誰にでも出来ること。
けれど、「目に見えないものの存在や、目に見えない力、目に見えない現象」を、きちんと誰もが理解できる「形」にし、そこに意味がある像を結ぶこと……それは時にものすごい困難でもありますが……それが「イメージ」の正体です。

そう思いながら自分の身のまわりを見回してみてください。

もし、そういう力がなかったら、イメージが全く働かなかったら……今、自分の身のまわりにあるもののほとんどは存在していない、と気が付きませんか?

裏を返すと、そういうものが与えてくれた恩恵に「感謝」する事を忘れ、いつの間にか当たり前になってしまって、さらにそのための力を育てる事さえも忘れて……いえ、むしろイメージを阻害するようになってきてしまっている今の社会(この実例はこの先の章で述べていきます)は、「これから先」を考えたときに……いったいどうなって行ってしまうのでしょうか?

「イメージできる?」

そうつぶやきながら、この「イメージ」がなくなった世の中を想像してみてください。
そうつぶやきながら、今までこの「イメージ」が私たちにもたらしてくれたものを確認してみてください。

そうすると、いかにイメージする力が無くなった今がどんな危機的な状態にあるのか……。

「いいかげん、目覚めなさい」というあのセリフが単なるドラマの決め文句(人ごと)だという認識ではまずいということにあなたはもう、気が付いたのではないでしょうか。

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Photo : Midori Komamura

2 「イメージ」の正体。

Imageという言葉の意味を辞書でまず紐解いてみましょう。【「プログレッシブ英和中辞典」より】

━━[動](他)
1 …を心に描く, 想像する. 2 …の像を造る, …を彫刻[絵など]で表現する, …を(言葉・文章で)生き生きと描写する, 描く 3 …の像を写す;…を鏡に写す(mirror);…を映写する 4 …を象徴する;…に似(てい)る.

→ラテン語「類似,肖像」の意; IMITATE と関連語【「新英和中辞典」より】

イメージする、という言葉には心の中に何かを思い浮かべること、像を創り上げること、という意味があります。つまり、心の中で何かを形にすることです。心の中で何かを創り上げることです。
日本語では「想像する」という言葉の感覚と近いものがあります。

このイメージする力……「想像力」というものは、カントの理論によると「感性」と「悟性」を結びつける力、とされています。つまり、人間の感覚という人の“本能的”なもの(心)から受ける情報と、深い思考力や情報からの判断という知性・理解力(理論・実例)からの情報を結びつけてそれをわかりやすい形にするのが“イメージする力”の仕事です。

空想・妄想と想像(イメージ)との違いはそこにあります。つまり、イメージする力は、何も根拠のないところからは来ないのです。

もともと想像も妄想も空想も皆、それぞれの心の中の世界から来るものだから、ある意味「自分中心」で「独りよがり」なもの。個々の人間が持っているものがみんな違って当然です。しかし、その根拠が実際の体験や経験や事実から来るものであり、また様々なデータやいろいろな現象の分析と結びついたものであればあるほどに、そこに生まれた像はより実態に近いものになります。

より多くの根拠や基盤に基づいて自らの中にある目に見えないもの(感覚)を、一般的な像に結びつけて形作る行動が「イメージする=想像する」ということになるのです。

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Photo : Midori Komamura

ところが今、人々は自分の生活に追われています。生きることが精一杯でこの「イメージ」を働かせる機能がかなり劣化しています。

無力な子供に対してのイメージが働かないから虐待が起き、友だちの痛みをイメージできないからいじめが起きる。汗をして働く人の頑張りや、その先の喜びをイメージできないから盗み、横領し、それをごまかして闇に葬ろうとする。人の命を奪うこと、それがどんな悲しみや痛みを伴うことなのかのイメージが出来ないからその手を止めることができない……。

「空気を読む」という状態も、「イメージが出来ない」から起こることです。
その場の状況、人の様子、そういう「表面的な部分」を見てただそれに「自分を合わせる」だけ。それが「空気を読む」行動。けれど、もうちょっと深くイメージしてみればその行動が端から見たら単なる茶番劇でしかない、ということに気が付くことでしょう。

実は、そこにいる人達はみんなお互いの行動を見て合わせているだけなのかもしれない……そういう「イメージ」をしながら観察してみる。そういうイメージを持ってみると人の行動に隠れている「想い」が見えてくる。それが見えたら、その場で自分はどうあったらいいのかがちゃんとわかってくる。この茶番につきあって無駄な時間を過ごすのか。それとも自分と同じように「茶番」につきあっている人間を見つけて「本当の楽しさ」を一緒に見つけるのか。

実は、じっくり観察し、確かなイメージが出来たら「その場の茶番」をコントロールして「本当に楽しかった」とその場の人々をうならせる状態に持っていくことだってできるのです。

今の社会で起きている様々な問題。現象。そのすべてを引き起こしているのが「イメージの欠如」なのだという点ではみんな同じ根っこの上に立っています。だから、容易に人にコントロールされてしまうのです。目の前の茶番や、見た目の楽しさだけに合わせて右へならえとイメージを働かせないからずるずると引き込まれ、やがてイメージする力さえも失って、結果ベルトコンベアーに乗せられたような生活しかできなくなってしまうのです。

つまり、それは「プログラムされた生活をこなすだけ」の状態。そしてそれは「機械」でも出来ること。言いかえれば「イメージできない人間」は「ロボット」のような機械に等しい、ということになるのです。人が人でなくなり、誰かのプログラムに従って動くだけの社会。体温を持ち血の流れるロボットがうごめく社会……。

(マニュアル化された客への受け答えしかしない電話対応・窓口対応やコンビニの店員などのオウム返しのような感情のない言葉から、それに近いものを感じたことはありませんか?)

テレビや新聞から「与えられる」ニュースをそのままうのみにし、もしかしたらそれが「操作された情報」かもしれないのに「真実」と受けとめて、そこに生み出された「悪者」を皆で口をそろえて批判する。昨今の政治情勢の中にも、それらしいことがたくさん隠されているように思います。

そうして、もしかしたら実は「操作」されていることに気が付かないまま、「自分たちで考える」事をしないまま、「コントロールされた社会」の中で自分自身は何も見ない、何も感じないで「作られた平和」の上で何事もないように暮らし続ける。

私たちの社会は今、イメージ力を育てないことでそこにどんどん近づきつつあるのです。もうすでにそれに気がつけない状態に陥ってしまっているのです。

イメージ力の欠如。
今の社会の問題のほとんどの一番の原因は、そこにあったのです。

逆説を唱えると。
「正しいイメージ力」がちゃんと育っていけば、今の社会は当然ちゃんと立ち直ることができるのです。

Photo : Midori Komamura

1 「イメージ」がないとどういうことが起こるのか。

「もしも○○だったら」と考えること。それも「イメージ」する方法の一つです。
だからこの文章の最初から、実は「イメージ」が出来ないと成り立たないのだけれど、まずはそこから入ってみます。

「もし、イメージすることが出来ないとどうなるのか。」

朝起きる。時計を見る。目覚ましが鳴らなかったのかいつもよりも遅い時間。
「じゃぁ、この後どう動くのか」……そこにまず「イメージする」という事が起きるのだけれど、それが出来ないといつものように起きていつものように歯を磨き身支度し食事をしていつものように家を出る。

家を出てから学校や職場に行くまでにもイメージは仕事をします。今日は一体、何の授業があって宿題には何が出ていて、順番から行ったら自分が当たりそうだから、わからなかった問題をあの子に聞いておこう……とか、今日の仕事はちょっと忙しくなりそうだから、少し会社に早めに着いていた方がいいかな、着いたらまず、あれとこれを準備して……とか、その日1日の状況を予測して自分の行動をシミュレーションするような感じで、ほとんどの人が無意識に「イメージ」を働かせているのです。

これが全く働いてくれなかったとしたら……。ただ時間にその場に行って、与えられたことを与えられたままにこなし、時間が終わったらまた家に戻る。それはまるでベルトコンベアーで決まったルートを流れていく状態か、機械仕掛けの人形のようなもの。

工作の時間などに刃物を持つ。刃物に触れたらどんなことが起きるのか、人はそれをイメージする(もしくは体感から記憶によみがえらせる)から、むやみに振り回したり人にむけたりすることを「常識として」普通はやろうとしません。「これが当たったら痛い」という「痛みのイメージ」を呼び起こしたり「ケガをして血が流れる」などの「恐怖のイメージ」を持ったりするからです。けれどもし、このイメージがなかったら、手に持ったまま振り回したり、平気で人に向け、それが当たったり刺さったりすることも気にしないし、逆に自らにそれが向かうことに対しての恐怖さえも感じることはありません。

自分よりも弱いものを守ろうとする行動もイメージが支えています。もし、自分が今手を貸さなかったら、自分が守らなかったら、この先この子はどうなるのだろう。自分の飼っているペットはどうなるのだろう。もし、自分がその立場に立ったらどんなに悲しくつらいだろう?……私たちは目の前で人が何か困っているときにそういうイメージが働くから、「大丈夫ですか?」と声をかけ、泣いている子供を抱きしめ、言葉が通じるかわからないペットに話しかけるのです。

もし、そこに「自分がその立場だったら」というイメージが働かなかったら、困っている人や弱っているものを見てもなにも感じないし当然働きかけをすることもないことになります。

Photo : Midori Komamura

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PROFILE

駒村みどり
【スマイルコーディネーター】

音楽活動(指導・演奏)、カウンセリングや学習指導、うつ病や不登校についての理解を深める活動、長野県の地域おこし・文化・アート活動の取材などを軸に、人の心を大切にし人と人とを繋ぎ拡げる活動を展開中。

WebマガジンNgene特派員
(長野県の文化、教育、地域活性化などに関わる活動・人の取材)
【羅針盤】プロジェクトリーダー。

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