地域格差の記事

茨城を選んだのは、正直言うと「震災の被害状況を見る」というよりは、翌日の行動を考えたときに沿岸を北上してみるのに都合が良いから……という本当に軽い気持ちだった。

けれど、「想定外」の言葉でこの第1日目の茨城からすでに私は打ちのめされた。

被災地をめぐる3日の旅から戻った今、その気持ちが茨城の人たちにとって本当に失礼であり、被災地の情報を集めていたつもりでも何もわかっていなかった自分を露見させることになるのだが、それも私自身の包みかくさない姿であるからきちんと記していこうと思う。

3月11日の震災が起きた後、私はひたすらTwitterで情報を集めていた。
テレビの映像は衝撃的なものばかりが流れ、それもいつも同じような場面ばかりだった。
だから、本当の情報はテレビじゃだめだ。ラジオで即時的なニュースを得ながら後はひたすらTwitterから飛び込んでくる様々な情報を眺めていた。

震災の翌日からその後しばらく、こういう言葉が浮かび上がっていたことを想い出した。

「茨城だって、被災地なんだ!通り過ぎていかないで!」
「栃木にも支援物資を!救援を!」

テレビや新聞の報道は津波で壊滅的な被害を受けた宮城や岩手の情報が多く、やがて原発の問題が浮上すると福島もそこに加わった。しかし、茨城や栃木に対しての情報はというと、ほとんど入ってこなかった。

(これに関しては、3月12日に震度6の地震に襲われた長野県の栄村についても同じようなことが言える。ふつうだったら震度6の地震が起きたら新聞やニュースはこぞって書き立てるのに、この頃は東北に埋もれて栄村の情報もほとんど入っては来なかった。このあたりについては、またのちに書き記します。)

情報がないという事=被害がなかったという事……ではないのだ。
けれど、今の日本ではどうしても被害の衝撃性が重視されてより刺激性のある情報にメディアは走る。それにおどらされないようにと自らで様々なところから情報を得ていたつもりだったけれど、やっぱり自分もメディアの影響をうけていたのだ……想定外だった。

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9月10日の朝。
長野県を息子(20才)、娘(18才)と共に車で出発する。
長野県の私たちの生活範囲では今回の震災ではほとんど被害が出ていないから、「いつもの秋」ののどかな風景が目の前にひろがっていた。

天気は上々で青空がまぶしい。
ここから先に見えるであろう被害状況はとりあえず本で予備知識を入れ、もしくは今まで現地に行った人びとや現地に住んでいる人たちとの交流から得た知識である程度頭の中に思い描いてはいたものの、「津波」とは縁がない長野県であり、「原発」とも縁がなく、地震の被害も目に見えていなかったから気楽なものだったような気がする。

佐久のSAで、これから会って話を聞く予定の被災地の方々におみやげを買う。
そしてまた秋の高速道をひた走る。
上信越道で群馬に入り、この3月19日に全線開通したばかりの北関東自動車道に入る。開通はあの3月11日の直後だったけれどこのあたりは地震の被害はほとんど無かったのだろう。

北関東自動車道は栃木県の岩舟JCTから、いったん東北道に入り、栃木都賀JCTからふたたび茨城県ひたちなか市に向かって北関東を横断する形になっている。
この、栃木都賀JCTから北関東道に入った途端に、高速道から見える家々の屋根に何か青いものが目立ちはじめた。
よく見ると、それはブルーシートで、そのブルーシートがとばないように石を乗せて押さえてある。
その家々が、高速道の両側にかなりたくさん見えてきたのだ。

長野~水戸

「あれ、もしかして地震の影響?」

写真を撮る。そのブルーシートの家は、次第に見え方が頻繁になり、さらにブルーシートでの補修の面積がどんどん大きくなっていった。(地図の赤い×をした地域)

3月11日に地震が起きて、この日9月10日で半年を経たことになる。
栃木や茨城はもうとっくに「日常」へと戻っているものだと思っていた……。

その「想定外」の光景が目の前に広がっていく。
さらに、水戸市内に入って町中を走ると屋根の修理をしている家、いまだにブルーシートの家、壁にひびが入っている家、ショーウインドーをブルーシートで覆ったままのお店……そこにあるのはまだまだ「完全復興」という文字にはほど遠い町並みの姿だった。

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「海の方まで行ってみようか……。」

運転している息子とどちらとも無く声を掛け合って、水戸を通り過ぎてさらに海の方に走ることにした。
ひたちなか市の方に向かって見たが、途中から本を見た息子が「大洗海岸行こう。」と言ったので、大洗海岸を目指してみることにした。

……その「大洗海岸」は、静かだった。
津波に襲われたと思えない美しい光景が広がっていた……その海辺ではがれきもほとんど無く、たくさんの人たちが波打ち際で海と遊んでいた。ここは穏やかだ……とホッとした。

私たちが到達したのは大洗海岸の水族館「アクアワールド」のあるところ。
大洗海岸は4メートルの津波と言うけれど、ここは穏やかで静かで、人の心を和ませる場所だからいち早く復興したのだろう……と思ってしまったのだ。

けれど、それもまた自分たちの無知のゆえの誤認だった。

水戸~大洗

実際に被害を受けたのはもう少し南の海岸沿い。(地図参照……クリックして拡大してみてください。青い網掛けになっている部分が浸水した場所です。)

大洗の町は約半分が浸水し、大洗港の船が陸に乗り上げ、大きな被害が出ていた。茨城でも津波による被害者が北茨城で出ていた。……みんな、知らなかった……。

それを知ったのは、アクアワールドから偕楽園を見に行き、夕暮れになってホテルに行く前に寄った本屋の「震災関連コーナー」で見た本からだった……。

こちらの本屋の画像を見てほしい……。→茨城の本屋にて。

私は、この震災関連コーナーで初めて「茨城の事実」を知った。
今回、まったく調べなかったわけではないのだ。ネットで「茨城の震災の被害」についてを調べまくったし、本やでも「震災の全体像」が見える本を探し求めたのだ。けれど、それらの本にはやはり「関東圏」である栃木や茨城のことはほとんど書いてはなかった。
ネットで得られた情報は……偕楽園が被害を受けた、ということだけだった………。

地元の本屋では茨城の被災の現状についてまとめた本が出ていて、それをパラ見しただけでも茨城の受けた被害の大きさが伝わってきた。

これでようやく、あちこちではためいていた「がんばっぺ茨城」の旗の意味と、たくさんのブルーシートでの補修の意味と、さらに海岸に向かう道路のあちこちがぼこぼこになっていたり亀裂が入っていたり、補修工事の真っ最中だったりする理由を納得したのだった。

情報がない=復興している……が大間違いであることを、ここで改めて実感した。

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水戸の偕楽園は……、3年前の夏に家族で水戸を訪れたときの写真があったのでそれを見てみるといかに偕楽園も酷い状態にあるのかが実感できた。もっと明るいうちに来て、ちゃんとみておけばよかった。偕楽園についたのは、もう閉園直前の4時50分ぐらいで日も沈みかけていたので写真はほとんどとれなかった。

このあたりも、無知ゆえのコース選択の誤りだった………。

かろうじて撮れた写真で「今の偕楽園」と「3年前の状態」を比較してみた。→水戸偕楽園今昔’08と’11

アクアワールドで海岸を見たつもりになり、すでに真っ暗になってしまった偕楽園を出て、本屋で「茨城」を再認識して後悔しても後の祭り。
けれど、その「想定外」を受けて自分の甘さやメディアの報道の偏りを実感したことは、今回の自分の震災の認識にとってはすごく大切な想いの一つになった。

そしてますます、メディアを信じず自分で情報をしっかり確かめることの大切さも。

こうして自分で見た「茨城」を伝えることで、メディアには乗らなくてもいまだに震災の傷と戦う地域があるということも、できるだけたくさんの人たちに知って欲しいとそう思った。

この日の画像はこちらにまとめてありますので、ご覧下さい。
2011.9/10水戸~大洗の状況(水戸~になっていますが、北関東道の栃木県内の画像も含まれていることをお断りしておきます。)

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付記:
茨城では、3月11日のほぼ1ヶ月後の4月16日に震度5強の地震も起こっています。
私はこの時の記憶はあるものの、「大したことがない」という印象の報道に安心していた可能性があります。
けれど、震災当時に震度6強の揺れのダメージから立ち直っていない上に震度5が来たら……かなり危険な状態ではないのかと、そして今まで復興ができないのもその影響があるのではないかと思ったりします。

一方、この日水戸を訪れたその時間に震度4の地震も起こっています。けれどこちらは、自分たちが車に乗っていて全然入れに気が付かなかったことと報道を知る機会もなかったことでまったく気が付きませんでした……。

参考資料(wikiの「東日本大震災」のページより画像を借用しました)

524px-Shindomap_2011-03-11_Tohoku_earthquake.png

656px-2011_Tohoku_earthquak.jpg

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被災地をめぐっての3日間~2郡山 へ続く

INTERMEZZO5. 1960年という年

このオーディオバイオグラフィー【羅針盤】の収録を終えて、この「古いものと新しいものをつなげる」というひとつのイメージで振り返ったときに、ひとつ面白いことに気が付きました。

先に例を挙げた室賀氏と星野氏は、1960年生まれ。このお二人とも「過去と未来を繋ぐ」テーマを持っています。

実は、この文を書いている私も、N-ex Talking Overから始まってこの【羅針盤】のプロジェクトを共に進めてきた宮内氏も、星野氏や室賀氏と同じ1960年生まれです。

自らの幼い頃から今までを振り返って思うとき、この1960年というのはいろいろな意味で日本のひとつの転換期であったように思います。

幼い頃、「欲しいもの」が何でも手に入るという状態ではありませんでした。両親は第二次世界大戦のまっただ中に生きて、戦時中も、戦後の混乱もすべて見てきた人たちでした。だからものの大切さもその不足による混乱やひもじさも、みんな感じて育ってきた人たちでした。

近代化の路を突き進んできた日本の時代のうねりと、それまでの歴史をしっかりと受けとめてきた人たちを親に持って、ものを大切にし、自然や、今から考えたらものすごくたくさんの「不便さ」とも共存していた時代でした。人と人との触れあいや、近所同士の助け合いもまだまだ充分に見られた時代です。

小学生、中学生と成長するにつれて、時代はどんどん「高度成長」へと向かい、競争社会、学歴社会、使い捨ての消費社会へと移行していきました。

かつて、小学生の頃は、鉛筆一本でも短くなっても最後まで大切に使っていました。もう持てないくらいに削った鉛筆は使えなくてもなかなか捨てる気持ちにはなれませんでした。ものが壊れれば、近所の電気やさんや建具やさんが飛んできて、すぐに直してくれました。「新しいものを買うこと」はものすごい決断がいる時代でした。

今は地方との格差がどんどん開いている東京も、まだその時代は「田舎」でした。今のようにコンクリートで固められた場所は確かに多かったけれども、東京にも田園風景はごく普通にあったし、車や電車もちょっと便利……という程度の感覚でした。

今はどうでしょう。
傘一本手に入れようと思えば100円でも買えます。晴れてしまって邪魔になったら、そのままゴミ箱に捨ててしまっても、また次の雨の時には近くのコンビニや100均で手に入ります。

コンピューターはどんどんバージョンアップし、2年もするともう以前の機種とは部品が変わってしまっていて、パーツの修理をするよりも新品を買った方が安上がりだったりします。

かつての人との連絡手段は、手紙か電話。電話は固定電話しかありませんでしたから、人と人とが「即時につながる」ことはとても難しかったのに、今は携帯電話やメールの発達で「思い立ったらその時に」すぐにつながることも可能です。

人々は高度成長時代……バブル期に向かってどんどん都会に出て行き、田舎から若い人手が減り、畑や田んぼのような「命を生み出す」場所はどんどん減っていき、身近で作物の成長を感じることができる場所は今や限られてしまっています。それはまだまだ加速中で、今、その田んぼや畑を支えている「農家」の人では高齢化し、ビジネスとして取り組む大規模農業に押されてしまっています。

古い時代の温もりと、新しい時代の躍動。
そのどちらもを身近に感じてきたのが、1960年代の人間なのだと思います。自分もそうですが、同じ年配の友人たちにも「これでいいのかな」という想いを持って動いている人が結構多いように感じるのは、身びいきだけではないように思います。
室賀氏や星野氏のように、古いものの良さを感じながら新しいものにチャレンジする、という気概を持っているものが同じ年代に多いと感じています。

この【羅針盤】の取材においてそれより若い世代である鏑木氏は、「柿」やそれを育んできた「南信州の歴史」を探って模索しながら進んでいます。また大井潤氏は長野県の観光の問題点は「新しいものと古いものとの対立」にあるとしていて、ザガットサーベイの長野版がそのつながりのための起爆剤になって欲しい……と願っていました。

一方で、先輩世代である市村氏や玉村豊男氏は、「これからの世代のために」、歴史や自らが得てきた知識や経験を、この先積極的に伝えていこうという想いを持って現在も様々な活動に携わっています。市村氏は、訪れるたびに惜しげもなくその深い歴史的な知識や見解を披露してくれました。市村氏という一人の人間の中で熟成された歴史は、教科書で知るそれよりもずっと温もりや血の通った歴史で聴くものにぐっと迫ってきました。

玉村氏は、大学紛争のさなかでの東京にいて、人々が我も我もと「都会」を目指そうというときにすでに「脱・都会」を謀って長野にやってきています。かつてフランス他ヨーロッパの各地で見て感じてきたものと、長野の土に感じるものとを融合させながらここまで来て、自身が展開している「ヴィラデスト」というイメージの形の中で、訪れる人たちにそれを伝えようとしている、これからそれをしていきたい、と語っていました。

若い世代の二人は今、「歴史」や「古いもの」をたぐり寄せようとし、先輩世代の二人は自らのものを伝えようとし、そして1960年生まれの二人に加えて私や、宮内氏の目指すのはその二つを融合させ、つなげていくこと。

もしもこの「トライアングル」がバランスよく見事な形でそれぞれの世代をつなげて成立したら。

それはとても豊かなものを、この日本の社会にもたらしてくれるのではないか……と、そんなイメージが今、私の中でふくらみつつあるのです。

二つのプロジェクトから見えたもの、掴んだ可能性の未来について宮内氏と語るうちに、ひとつのぼんやりとしたイメージが浮かび上がってきました。

今の社会・世の中は、まるで嵐の海のようなもの。先は見えないし、それがいつおさまるともわからない。その荒れた海で避難する場所も見えずもみくちゃで息もつけない。時に嵐は、がっしりした大きな船でもたちまち飲み込んでしまう。ニュースを賑わせる大企業の突然の破産や倒産、経営危機。みんなが必死に嵐と戦っていて、どうしたらいいのかわからなくて。みんなが嵐を乗り越えるために必死でいろいろな手段を講じているけれど……なすすべもなく抗う力も失いつつある。

それを乗り越えるためにはどうしたらいいのだろう。

自分たちも、まだそれが見えない。実際にいろいろ無我夢中で取り組んではいるけれど、どうしたらそれがちゃんと実を結ぶのか、何を目指してどんなふうにしたらいいのかわからない。……その「イメージ」がない……。「乗り越えるイメージ」が欲しい……。

今の時代にありながら、ちゃんと苦難を乗り越えてしっかり立っている人々がいる。そこにはきっと、乗り越えるためのヒントになる「何か」があるに違いない。そういう人たちに会って話を聞いて、その「何か」を集めてみたらどうだろう?

今この時に必要なのは、「乗り越えるためのイメージ」……そしてそれは、嵐にも負けずにしっかり立つことができる人々の持っている「何か」。それこそが訳のわからない苦しい状態を抜け出し、この先進む方角を示してくれるための「羅針盤」になるのではないだろうか。

いろんな人に会って、話を聞こう。そこから何かが見つかるかもしれない。その人々の言葉を集めて、自分たちだけでなく、おなじようにもみくちゃになっている人々にも伝えられるような“何かの形”にしてみたらどうだろう?

こうして、二つのプロジェクトから見えた可能性をより確かなイメージへつなげる手立ての一つとして、オーディオバイオグラフィー【羅針盤】の構想が生まれたのです。

かりがわたる

Photo : Midori Komamura

2-4そして【羅針盤】へ 〜社会という荒波を進むための指針〜

こうして、「日本の社会は大丈夫」というイメージを得、可能性を見つめるエネルギーを得ることが出来たのですが、一方で「現実」「現状」が持つ大きな課題もはっきりと目の前に山積みになりました。

日本は大丈夫、という要素も可能性もありますが、しかし逆をいうと「大丈夫ではない現実」が立ちはだかるからその可能性を探らねばならないわけです。

たとえば、一番切実なのはお金の問題。何をやるのにもお金がかかります。実際、N-ex Talking Overを半年で休止しなくてはならなかったのもそれが大きな理由でした。

同じく、若い世代がなぜ情熱を持ちながらそれを実際に生かすことができないか、という理由にも重なってきます。まだ財力の余裕がない若い世代は、活動にお金をかけることが出来ないし、自分の生活を維持するためには収入を得ることも必要で、収入を得るための仕事の時間が本当に目指すものにかける時間を圧迫する。これも現実のことです。

それから、年代や立場の差。

世代や立場を超えて交流できる場が消滅し、「異なった環境から生まれた意見」が討論される場がないことのほか、少子化・核家族化による年代バランスの崩れ、発展のために急激に進んだ競争社会、失敗が許されにくくなった環境、固定化・形骸化された決まりや伝統、もしくは増え続ける規則による思考の停止状態……。様々な要因が絡み合って、年配と若者、土地のものと外からの者、収入の多少、などの立場の二分化・二極化を創り出し、それによって意見もまた良いか悪いか、あっち派かこっち派か、という歩み寄りのない「対立」の構造を創り出していました。

結果、力のない者、権威のない者、実績のない者、資金のない者、といった「無い者」の挑戦は取り上げられなかったり、孤立したり、という状態がおこるのです。

そこで「可能性」を掘り起こすだけではなく、それをつなげてわかりやすいイメージにすることが必要でした。

実際に、小さい動きですが「活動」して頑張っている人はたくさんいました。けれど、それを取り上げてつなげる機能を持つ機関がないのです。だから、頑張っている人たちは孤独でした。「自分だけ頑張っていてもなぁ」というむなしさや、「こう考えるのは自分だけなんだろうか」という孤独感を持った人。N-ex Talking Overや文化庁の事業で出会った人々の中に見え隠れするそういう想い。

せっかくの可能性を未来につなげるためには、そういう想いを何とかするべきだろう、どうしたらいいのだろうか?
「この先」を考えたときに、何が出来るのだろう?

荒れた海を見つめるカモメたち

Photo : Midori Komamura

かつて人は、様々な感謝や、祈りを捧げる一つの形として「祭」を行っていました。それは豊かな恵みや労働に、人々が生かされていることに、自然との共存を願って、厄や難を避けるために……など理由や形には様々ありますが、「より良く生きる」「豊かに生きる」ことをイメージしたときに生まれる祈りや感謝という想いを形にしたものが舞いや音楽。そしてそれを奉納するのが祭です。

南信州には、山あいとそこに住む人々に守られて、いまだにこの祭がしっかりと中身を伴って多数残っているのです。伝統だから、決まりだから、という形を維持するためではなく、人々の「より良い生き方」への想いと情熱によって今の時代に力強く受け継がれてきているものがたくさんあるのです。

この祭の中に、今の時代をよみがえらせるためのヒントがないだろうか。形だけのものに心を取り戻すためのヒントがないだろうか……。そういうテーマで取り組んだのがこのフォーラム南信州「祭の流儀」でした。

2回のフォーラムと、まとめの会。それから各地の祭の現地調査とそこで出会った人々。一年を通じて頻繁に飯田に通い、南信州の空気や土地柄を直に肌に感じながらこの事業を進めていく中で見えてきたもの。

それは、その土地土地にはそれぞれ持っている気風=地脈というものがあり、その上に成り立った生活や文化は人が生きる上で本当に必要な「命のエキス」のようなものだ、ということ。それを忘れたり捨て去ったりした土地とその人々がたどるのは衰退。けれどその地脈をきちんと感じとり、それを生かした生活の上に成り立っているところは細くても小さくてもちゃんと命のリレーが出来るのだ、ということ。

過疎化。高齢化。こういった現代社会の波は確実にこの独立状態の南信州にも押し寄せています。死んだ畑や田んぼもたくさんありますし、シャッターがおりた店が目立つのも確かです。でも、地脈を感じている土地の人々の表情は明るいのです。前向きなのです。形にはめられず、踊らされず、心を守ろうとする強さと情熱が消えていないからです。

東京の雑踏の中で、ものすごくたくさんの人の波の中で立っているときには感じられない人や大地の放つ「気」というものが、「祭」という一つのイメージの形から強烈に伝わってきたのです。

これなんだ。これが必要なんだ。「今」に欠けているもの、「今」が見失ってしまったものはこれなんだ。

それを色濃く残している南信州の土地と、そこの人々からもまた、「まだいける、まだ大丈夫」という力をもらい、一年間の事業からたくさんの「前へ進むためのイメージ」の材料を受け取ったのでした。

*フォーラム南信州「祭の流儀」 (H20年度文化庁事業)の概要とまとめはこちらでご覧下さい。

霜月祭

Photo : Midori Komamura

3 フォーラム南信州「祭の流儀」 (文化庁事業)

同じく2008年。文化庁・平成20年度「文化芸術による創造のまち」支援事業として宮内氏と取り組んだもう一つの企画。それが「フォーラム南信州“祭の流儀”」でした。

飯田・伊那を中心とする南信州という土地は、どちらかというと同じ県というよりも「独立した場所」という感覚が強いところです。諏訪湖から流れ出す天竜川が削り取った山と山に囲まれた谷と河岸段丘に細長く拡がった町。

今でこそ長野から名古屋に抜ける高速道路が通っているものの、それ以前は飯田線が外部につながる唯一の長距離交通網であり、さらに飯田線はローカル線であるので時間はかかるし本数は少ないし、東京に行くのにはいったん辰野まで北上せねばならないし、県庁所在地である長野に行くにはなんと半日以上の時間を要するといった有様でした。

県内のニュース、ということで南信濃の土地名が出てきても、そこがいったいどこにあるのかすぐに思い浮かべることの出来る人間はたぶん少ないでしょう。

そうでなくても南北に長い長野県。長野から高速道を利用して飯田に行くのと関東圏(埼玉あたり)に行くのと、ほぼ距離的には同じで、一方南信州からは県庁のある長野に行くよりも高速を使って名古屋に行く方が早い……とイメージするといかに南信濃という土地が長野県の中で「独立状態」にあるのかは伝わるでしょうか。

けれどそれは今の状態。かつて都が京にあった時代の南信州は信州の玄関口に当たる場所。

今でこそ長野県は高速道路や新幹線でだいぶ開かれたもののそれはまだ歴史に浅いことであって、「陸の孤島」と呼ばれていた時代、南信州は実は「文化の入口」であり「最先端」の土地であったのです。

今では交通網の関係でかなり取り残された感がある南信州ですが、もっと歴史をさかのぼるとそこにはかなり磨かれた文化が根付いていて、「独立状態」になってその独自の文化は逆に、いわゆる高度成長期の急激な変化の波をかぶることなく守られるかたちになりました。

「急成長」という呼び声のもと、日本各地ではその波に乗った人々によって古くからの伝統や決まりが形骸化していってしまったのに比べ、南信州のそれはきちんと「中身」=精神・意義・経験を伴ったものとして受け継がれて来ていたのです。その一つの形が「祭」でした。

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Photo : Midori Komamura

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PROFILE

駒村みどり
【スマイルコーディネーター】

音楽活動(指導・演奏)、カウンセリングや学習指導、うつ病や不登校についての理解を深める活動、長野県の地域おこし・文化・アート活動の取材などを軸に、人の心を大切にし人と人とを繋ぎ拡げる活動を展開中。

WebマガジンNgene特派員
(長野県の文化、教育、地域活性化などに関わる活動・人の取材)
【羅針盤】プロジェクトリーダー。

Twitter:komacafe 
HP:コマちゃんのティールーム
メルマガ:【うつのくれた贈り物】
facebook:Midori Komamura

詳細は【PRPFILE】駒村みどりに記載。

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