方向性の記事

「あ……私、これだったらわかる。」

娘が選んだのは小さなクリのような形をしたバッヂで、お地蔵さんのように胸の前で手を合わせていた。
このバッヂは「希望のたね」という。

今回の東日本大震災が起きた3月11日以降、娘と2人でずっとラジオなどで情報を得ながら「出来る事をしていきたい」と思い、募金箱を見るたび募金をし、支援物資を募集している情報には自分たちで提供できる物はないかと聞き耳を立てた。

私が所属しているバンドでもライブで募金を集めて送ったし、取材活動や地域のボランディア団体への参加など、 さまざまな形で「応援の気持ち」を表してきた。また、支援活動に取り組む人や団体があるとその活動を応援する気持ちで色々なグッズを購入もした。

そういう被災地を応援する時によく見られるのが「頑張ろう」という言葉。
「頑張れ」じゃ人ごとみたいだし上から目線。それだったら一緒に、という気持ちを込めて「頑張ろう」かな……というそんな思いがこもっているのだろうけれど、娘はそれもやっぱりあまり気に入らないようだった。

「だってね、あまりに仰々しいもの。」

気合いを込めて頑張る、という感じはあまり好きではないという。その気持ちはよくわかった。いかにも応援しています、というそういう「気張り」は何となく肩が凝る。だけど、このバッヂが生まれた背景と、その想いを読んだ時にわたしもものすごく共感し、そして目の前に迫る東北行きにこれを持っていこうと思ったのだ。

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娘も、たぶん同じ思いだったのだろう。「うん、これだったら私もつけるよ。」そういって1つ手にとると自分のバッグにそっとつけた。

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このバッヂをデザインしたのは、イラストレーターの「ゆきつぼ」さんです。
彼女は、長野県栄村の出身です。

長野県栄村。ここはあの3月11日の東日本大震災のわずか半日後……3月12日の午前3時59分に発生した震度6強(M6.7)の地震に襲われたのです。「長野県北部地震」と命名されたこの直下型の地震は、あの東北がなかったら衝撃的な災害として報じられたに違いありません。

参考:長野地震(M)6.7被害の様子【3.12栄村大震災】
   津南町・十日町市の地震被害【栄村大震災 震度6弱】

けれど、東日本大震災のあまりの被害と衝撃度の大きさに、ほとんど取り上げられることがないままに 「忘れられた被災地」となってしまいました。事実、今回の被災地巡りで出会った人たちは「長野県北部地震」のことも「栄村」のこともまったく知りませんでした。

けれど、この「過疎地」栄村は忘れられた状態を嘆くことなく、淡々と地域が力を合わせて復興に向けて動いています。このゆきつぼさんの「希望のたね」もそんな中から生まれたのです。(ゆきつぼさんのご実家も、栄村で今回被災しているのです。)

わたしがこの「希望のたね」のことを知ったのは、被災地巡りを計画してその準備を進めていた9月はじめのことでした。Facebookのお友達がこの話題を紹介していて、気になってゆきつぼさんのブログを見に行ったことがきっかけでした。

そこには、この「希望のたね」が生まれたきっかけ、そしてゆきつぼさんの想い、それから「希望」についてがやさしく静かな言葉で語られていました。

kibounotane.jpeg「希望のたね」のキャラクターを作るとき、本当に一生懸命考えたのです。
それは、自分自身の実家も被災しているということ。
当たり前だと感じていた故郷の姿が、一変したということ。

このつらい気持ちを、ただつらいと吐き出すだけではなく、
何かにしたい。

だって、本当につらいのは、そこに住んでいる当事者たちだから。
自分も実家が被災した被災者だ、つらいんですとは、到底言えない。
私には、私の家が、他にある。

だからこそ、このどっちつかずの気持ちを、
だからこそ、そんな自分こそができる何かを、
カタチにしていくべきではないのか。
そう思いました。

(「ゆきつぼの想うツボ」8月7日「希望のたねに込めた想い」より抜粋)

私も……今回の震災に当たって、本当にやるせなかったのです。自分は被災したわけではありません。でも、その地にいる人たちの想いはイメージできました。自分の今までの経験や体験に重ねても、とても追いつかないくらいに哀しい気持ちなのだろう……辛い気持ちなのだろう。

だけど、自分にはお金も力もありませんから、何もできません。それどころか、自分自身の生活に追われて精一杯生きるだけの毎日でした。

それでも。人として、哀しい思い、辛い状況、苦しいところにいる人たちのために何かがしたい。それはしかし、娘が言うように「頑張れ、頑張ろう、一緒に歩むから!」という激励とか励ましではなくて……どちらかというと、心を寄せる、そっと寄り添いたい……そんな思いでした。

確かに、被災地は今大きな被害を受けて大打撃の中にいます。けれど……生きる、ということにおいては誰もがそれぞれに必死なのです。生きるのに精一杯で、お金も時間も知識も力も何もない自分が、「人のために力を貸す」ことなどは出来ません。

被災地への想いは、この先の日本への想いにつながりました。それはまた、ここから先の明らかに厳しくなる情勢の中に生きる子ども達への想いにつながりました。子ども達の未来に希望を持ちにくくなっていたのは震災の前からのことでした。子どもだけではなく、大人たちもだいぶ諦めていたように想います。諦めて投げ出して、変わらない、どんなに頑張っても未来に夢など持てない……そんな人たちはかなり多かったのではないでしょうか。

それが今回の「震災」という、明らかに未来に大きな影響を及ぼす「被害」が目の前にひろがった。この危機は……尋常じゃなく、無くしたものは大きく、そしてみんなで踏ん張らないときっとつぶれてしまうに違いない……日本の「未来」は。

多くの人が被災地に心を傾け、さまざまな形でその支援のために動き始めました。「頑張れ」「頑張ろう」……その想いはしかし、被災地にむけての激励だけではなかったのじゃないかと私は想うのです。

これまで、未来を諦めかけていた大人たち。もうこの先変わりっこない。未来に夢など無い。そう想っていた人たちが、被災地の惨状とそこからの「復興」という具体的な目標を目の前に突きつけられた時に「頑張らなくては!」と思ったのではないでしょうか……。

つまり、「頑張れ」「頑張ろう」は、被災地にむけての言葉と同時に本当は未来を諦めたくなかった自分への激励の言葉でもあったのではないのでしょうか?

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こういうやるせない状況に陥った時に、「頑張らなくちゃ」と気持ちに活を入れることは、1つ前に進むための手立てです。けれど、あまり「頑張って」進むことは、長続きしません。

私が被災地の人たちと「共に頑張って」未来を作りあげよう、という気持ちにならなかったのは、これまで日本という国全体がとにかく「頑張って」ここまで来たからでした。頑張っても頑張って、もっともっとよい未来になってきたかというと、実はそうではない。逆に頑張ることに意味を感じられないような社会、政治、国の有様に諦めムードが漂っていたように想います。

だから私は、今回の被災地に対しても、気持ち的に応援したいと想いましたが、「頑張って」何かをしようとは思いませんでした。日本の未来、私たちの明日、そういう面で考えた時に、一瞬即発的にエネルギーを爆発させて頑張るよりも、自分が自分のままで気張らずに力を入れずに出来る事、しかもずっと続けられる事をやっていこう、とそう想ったのです。

それは、うつ病や息子の不登校、親の介護問題などが一気に自分にのしかかってきた時期に……頑張っても頑張っても先が見えず、どんどん力も気力も失われていった自分の姿と今の日本の姿が重なったからかもしれません。本当に苦しかった時、自分のこの先を思い描けなかったあの頃に、私が掴んだ「次の一歩」への道は……「私は私でいいんじゃないか」ということでした。

今、自分のまわりには大切な子ども達がいて、自分は生きていて、ちゃんと生かされている。
まわりの人のためとか、社会のためとか、学校のためとか生徒のためとか、ものすごく頑張ってみても自分自身がきちんと自分の足で立って笑顔でいられなければ、必死になっている自分をまわりは心配して結局はみんなが苦しくなるだけなんだ……。私が自分の子ども達の笑顔に救われ、明日に向かう力をもらえるように……私もまた、自分の笑顔で感謝と喜びとともに生きて周りの人たちと一緒に幸せになっていくのじゃないだろうか。

今その時を自分の足で立って、自分らしく生きる事。
それが何よりも「明日」につながっていく一番の力になるんじゃないだろうか。

私自身の身に起こったこと、それは震災と比べようがないのかもしれませんが、今回の被害に限らず人は生きていく上でものすごく大きな波や自分の足場がぐらつくような想いや、やりようのない深い悲しみの胸の痛みを感じて行きます。それを1人1人が乗り越えて、毎日をしっかり生きること……生きていること、生かされていることの幸せを受けとめて、それに感謝して、自分なりに生きる事……それが何よりも「明日」への大きなかけはしになるのではないのでしょうか。

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「希望のたね」のデザインを見た時にものすごく心惹かれたのは、胸の前で両手を合わせて静かに微笑むお地蔵さんのような穏やかさでした。力みも気張りも全くなく、ただ静かにそこにいるイメージでした。そしてその頭のてっぺんから小さな芽。やがてそこからは葉が出て伸びて、花が咲くかもしれないし、大きな木に育っていくかもしれません。「小さな芽」は、この先を予感させる「希望」なのです……。

自分で出来る事をやりながら、自分のままで生きる事。
今を生きて、そうしてそんな「今」がつながっていったら……「もっともっと」と先ばかり見ず、充実した今を生きて、それが「笑顔」につながっていったら。

まっかな夕日が翌日また、朝日としてのぼってくるように「今」は必ず明日につながっています。
今を生きる事で明日の希望が芽を出し、葉を茂らせ、やがてたくさんの花を咲かせ、実を結ぶことになっていくのだと……そう想うのです。

今を生きる事……それは明日のために、日本のこれからのために、さらにそれは子ども達の未来のためにとつながっていきます。

それぞれの人が毎日を生きて、そして生かされていることに感謝すること。
それが明日への「希望」を育てることになるのです。

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被災地をめぐっての三日間の記録のまとめ、長い文章におつきあいくださりありがとうございました。
私はこのあと、10月の連休を使って長野県栄村と十日町……長野県北部地震の被災地を子ども達と訪れる予定です。そこにまた、感じるところがありましたらお伝えしようと想います。

この文の中から少しでも、皆さんの「明日」につながる希望が見つかりますように……。

*なお、「希望のたね」は現在も販売中です。ゆきつぼさんのブログに販売しているところが書いてあります。もし、あなたも「希望」を手にしたいと想ったら。そしてその種を誰かと育ててみたいと想ったら。どうぞ是非手にとってみて下さい……きっと優しい気持ちになれると思います。

7月3日。Youtubeで発信された1つの映像がマスコミよりも敏感にある政治家の「暴言」を報じた。その映像が、マスコミは最初まったく問題視していなかったその暴言を一気に「大問題」にと変容させた。

政治家の名前は、松本龍。復興相として就任後初の被災地入りでの宮城県知事との会見での彼の発した言葉と態度が問題視され、激しい追及にあって2日後の5日に復興相と防災相の辞任へと追い込まれた。

松本元復興相の態度とその発した言葉は上から目線で横柄で、大震災への対応にみんなが必死になっている状態の中で、被災地の人びとを傷つける許されざるものだ。

その糾弾に立ち上がったのはWeb上の人びとだった。そこにメディアが追随した形だ。
Twitterでこの情報が拡散し、Facebookでもシェアされ、それと共に松本龍復興相の追放を要求するFacebookページが作成され、そこではかなり激しい言葉が交わされていた。

目的は「大臣の追放」。そのためにかなりの怒りのパワーがここに集結していた。これだけの力がまだ、日本の人々にも残っていた。社会の無力感から怒りすら忘れてしまったのかと想っていたけれど、ここまでの力をぶつけることができるのだ……。「間違ったこと」「許されないこと」に対してきちんとNO、と言えること、それに対して怒りをぶつけられること。
社会がきちんと正しい方向に進むためには絶対に必要な力がこれだけ残っていて、その力を集めることがちゃんとできる。今まで人びとが無力感に動けなくなっているのかと想っていた私は、それを感じて少しホッとした。

けれど、その後……あれだけのエネルギーを持ってこの大臣を追及して辞任に追い込み、大臣が「辞任」を表明したことでFacebookページはそのままストップし、あそこに捧げられた情熱もどこかに拡散してしまった。当然メディアの興味もまったく向かなくなり……そして政治は、日本は、被災地は……何か前進しただろうか?

実は、こういう流れは今まで何回も起こっていた。政治家の不祥事、暴言。政治家に限らず様々な企業や組織でも起こってきたこういう「責任問題」。その度に、メディアや国民が怒りを持ち、それを書き立て、そしてその結果テレビや新聞の向こうで「申し訳ありませんでした」と代表が頭を下げ、トップが辞めることで「一件落着」になる。

……そしてそのあとは?

正直な話、「まったく何も変わっていない」。TOPがかわり、辞めることで矛がおさまる。その企業やその部署には監査が厳しくなるのかもしれないが、また別のどこかで同じような問題が発生し、そしてまた同じように引責問題で誰かが頭を下げて辞め、そこで事態は収拾する。

今までずっと、その繰り返しだった。だから、今回もこれだけのエネルギーでこの大臣を辞めさせたが、それは「首のすげ替え」が起こるだけの話で、その体質や組織自体が変わるわけではないから……何も変わらない。そして当の本人も、大臣を辞めるだけで議員を辞めるわけではないからあまり痛みがない。

あれだけのパワーが集まって迫ったら、もっと奥に潜む「根源」を断つことも可能なのにもったいない……わたしはそう思う。

このパワーの矛先を向けるのは、松本大臣でよかったのか?同じようにそのあと菅総理も交代し、首のすげ替えが起こっても、国民よりも我が身第一で上から目線の「永田町の体質」はまったく変わらず、ゆえに大震災後の緒問題も原発問題も何も解決していかない。

こういう問題を引き起こすその原因はどこにあるのだろう?
こういう「大問題」に隠れて、私たちはもっと本当に怒りをぶつける先……「諸悪の根源」を見失ってはいないのだろうか???

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「東日本大震災」が起きた直接の原因は、3つの地殻変動による大きな地震と、それによって引き起こされた大津波です。その破壊力は甚大で、あっという間に多くのものを失いました。

けれど、天災に対して怒りをぶつけても仕方がありません。
なぜなら、私たちはこの地球の「住人」なのだから。人間は地球というアパートに間借りして住まわせてもらっているうえに他に行くところはないので、アパートの現状の中で住人みんなが環境やその維持に心を配って住むしかないからです。

けれど……人間は地球というその借家に好き勝手をして傷つけてしまったのです。地球というアパートが地震で揺れた時、住人の不始末でその被害が果てしなく大きく広がってしまったのです。……つまりそれが「人災」です。

被災地の復興に立ちふさがる行政の動きの悪さ。なかなか行き渡らない支援金や支給品……規則や法律、そして組織の融通がきかない事による行き渡りの遅れ。それから情報の不備や偏りによる地域格差。それによる復興の遅れ。すべては人災です。

さらにもっと大きな許すことのできない人災がこれです。

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自分で制御しきれない「原子力発電」という爆弾を抱え込んでいた住人(東京電力および原発関連の事業)がいて、その扱い方もきちんとできず、何か起きたときの責任さえ取れないままにひたすらその巻き起こした「被害」についての責任から逃れようとし、そのデータの公表や実態を明らかにせずに隠蔽しようとし、責任を問われるとその所在を人に押しつけようとしました。

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(画像は2つとも東北地方太平洋沖地震 原発関連wikiより借用)

その管理を委託されているはずの管理人(国)は、自分から招き入れたその住人を制御も管理もできず、しっかりと責任を取らせることもできず、もっと悪いことには、そのせいで被った被害を埋め合わせるために他の住人たち(国民)にも家賃値上げ(増税)という形で一緒に責任を取らせようとしています。

もともとこの福島の原発の原子炉を作ったのはアメリカの会社ですが、実はこのような大規模な事故に耐えうるものではなかったことがその会社で35年前に指摘されていたのを放置(米GE製の福島原発原子炉、安全上の問題を35年前に指摘)し、うやむやにしたまま操業していたのです。なのに「想定外」と言って逃げようとし、その事態の収拾に当たっては会社の社員ではなく下請け、孫請けの人びとを「使い捨て」状態にしている事実、この事態をきちんとしたデーターとして公表もせず、その分析も人任せ、ひたすら表舞台から逃げ隠れ。そしてそれによってもたらされた被害は地震や津波の比ではありません。

東電の株主総会に出席した人の話を聞くと、その対応は明らかに無責任なものであり、そしてそこで発せられる言葉は被災地の人びとだけでなく、日本、さらに世界の人びとにも影響を及ぼす被害をもたらした者としてありえない、先に辞職に追い込まれた松本大臣の比ではない聞くに堪えない「暴言」に近いものであったと聞きます。さらに、その被害を受けた人たちに対しての「補償」に対する態度すら、こんな状況であるということです。→『東京電力株式会社が行なう原発事故被害者への損害賠償手続に関する日本弁護士連合会会長声明』 

これはもう国をあげてその責任を追及し、怒りを持って東電という存在自体を根っこから覆さなければならないレベルなのではないでしょうか。風評被害、農作物・水産被害、土地の汚染、人々が家に帰れない異常事態……それらの全責任が東電による「人災」です。東電は全世界に対しても今回の件に関して責任を取るべきなのです。

しかし、この「暴言」や「暴挙」に対して……残念ながら松本大臣の時のような勢いを持って東電に迫るものはいまだにありません……「野放し」なのです。

この東電に対して国・政府はもはやなんの制御力もなく、そしてメディアはまったく「追及」しようとはしません。株主総会の状況も、それから現在その対処に当たっている人びとの様子も、さらに立ち入り禁止の区域の状況も、そして「これから何十年も影響を及ぼす放射線に対してどんな対策を立てていったらいいのか」の手立てすら、政府やメディアから仕入れることはできないのです。

(原発の問題が明らかになった途端にそれまでうるさいほど騒いでいた報道関係者が30キロどころか50キロ圏よりも近づかなくなりました。そこで生活しなくてはならない人たちがたくさん居るのに、その人たちの実態や苦しみは報道されることがないのです。)

そのため、当然国民に流れるのは不安や憶測です。見えない、わからない。正しい情報は入らない。そしてこの先どうしていったらいいのかもわからない。「風評」が出るのも当然の状況をつくり出しているのです。東電、国、メディア。すべての逃げ腰がこの状況を作り上げているのです。その責任の重さを、いったい誰が追求するのでしょう?そして、この状況を一体どうしていったら私たちの「明日」につながるのでしょう。子ども達へと「未来」をつなげていく事が出来るのでしょうか?

4、私たち一般の人間がすること。

(1) 「正しい情報」を得る努力。

一つ目に大切な事。それは、「正しい情報を受けとめ、そしてそれをしっかりと把握すること」。

その正しい情報を得れば、より良い社会や方向に向かうためには何をどう正していったらいいのかを判断し、良いものは取り上げてさせたり広めたりする一方で、今回の東電や動かない政府のような正すべき者に対しては、その根っこまで探り当てて修正や治療、時に新しく作り直すことを求めて皆で迫ることが可能です。

が、今回の震災に関連して……特に原発の問題に関しては情報がまったくといっていいほど入って来ません。たぶん、今、日本の国の中で「正しい情報」もしくは「使える情報」を手に入れることは難しいのです。

必死で正しくデータを分析した情報、そして原発に対抗するための情報や手段を訴えている人たちもいます。しかし、なぜかそういう情報を政府も日本国内のメディアはまったくといっていいほど取り上げません。

それが顕著だと私が感じた一例が7月27日に国会( 衆議院厚生労働委員会)で東大の東大アイソトープ総合センター長で教授の児玉龍彦氏の発言です。ここまで具体的に現地の状況を報告し除染の緊急性と子ども達への影響を訴えているにもかかわらず、メディアでこれを重く捉えて緊急事項として報道したところは1つもありませんでした。

国会はまったく動かず、さらにこの模様はYoutubeを通じて一晩で30万を超えるアクセス数があったにもかかわらず7月末には一度削除さえされています。(その児玉教授のまとめはこちらから見ることができます。東大・児玉教授の放射能についての発言まとめ

児玉教授自体はその1ヶ月後くらいに動かない国に対して失望の念と再度の対応を要求するようにメディアを前に訴えていますが、これもまたまったく伝わっていきませんでした。東京プレスクラブ: 東京大学児玉龍彦教授緊急記者会見映像(2011.8.22)

この3月から様々な情報を追いかけていますが、それらを見ていると日本のメディアにはすでにもう役に立つ情報の発信能力や、正しい情報によって国や社会を動かす力、未来につなぐ力はありません。

この東日本大震災に関し、特に原発に関して「信憑性のある情報や状況」といえるものは……海外のメディアによる取材・報道……それが逆輸入の形で入って来た物ばかりでした。(一例:福島第一原発労働者の実態を撮影:小原一真(独ZDF)、)

私たちは、国から正しい指導も方針も得ることは出来ません。そして、日本の国のメディアからも正しい情報や報道を得ることは出来ません。Web上では様々な情報が流れていますが、どれが正しくてどれが間違っているのかの判断を簡単につけることもできません。実際が見えないから情報が欲しいのに、実際を知らないとその正誤の判断もつけられない。

では……国にもメディアにも頼らずに「正しい情報を受けとめ、そしてそれをしっかりと把握すること」のために、一般人である私たちは一体どうしたらいいのでしょうか?

被災地巡りの3日間の2日目、仙台での夜に、ネットを通じて出会った人たちとの会話の中から、そのためのヒントを私はもらったのです。

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被災地をめぐっての3日間~6「明日」のためにできること(3) につづく

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付記:ジャーナリストの烏賀陽 弘道さんが、原発20キロ圏内に潜入し、そのレポートを最近発表しています。原発20キロ圏内の「真実」がそこに見ることができる貴重なレポートです。さらに、そのレポートが浮き彫りにしているのは……。これは皆さん、どうかお読み下さい。

寒気を覚えた無人の町の異様な空気突入!この目で見てきた原発20キロ圏内(前篇)
略奪されたコンビニの暴力的な現実突入!この目で見てきた原発20キロ圏内(後篇)

付記2:風評被害の一例……本当にこれは一例なのです。福島の人たちの心をこれ以上傷つけ苦しめてはいけない……一刻も早くにこういう心ない言葉を発する人を減らす人間が「自らを恥じる」ような正しい認識を広めていかねばいけないと思います。
親父の告白・・・。(口調が厳しいのでスルーでも可)

9月11日。この日は、東日本大震災からちょうど半年後の日。
この日の各新聞の朝刊の見出し……一面のtop記事のタイトル。

鉢呂経産相が辞任 不適切発言などで引責(朝日新聞)
成長導く復興めざせ 東日本大震災から半年(日経新聞)
就任9日、鉢呂経産相辞任…官房長官が臨時代理(読売新聞)
震災で見えた国防の穴 (産経新聞)
鉢呂経産相が辞任/被災地 遠い復興 (毎日新聞)
鉢呂経産省が辞任/希望の光 迷い 守る~大震災きょう半年 (中日新聞)

震災半年 死者1万5781人、不明4086人 避難・原発 見えぬ収束 (河北新報・仙台の新聞社)
Six months on, few signs of recovery (The Japan times)

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私が調べた新聞8紙のうち、鉢呂氏の辞任がTOPだったものが4紙。震災の復興やその後についてを書いた記事が3紙。そして、震災関連かと思いきやそれをきっかけにして「国防の甘さ」についてを書いているのは産経新聞。なぜこの日に「国防」なのか……首をひねった。

震災復興についてを記述した3紙のうち、1紙はジャパンタイムズ、もう一紙は仙台の新聞社「河北新報」の新聞。全国紙で一面に扱ったのは日経新聞ただひとつだった。

TOP記事ではないにしろ、中日新聞は一面のど真ん中に赤子を抱く母の姿。放射能の不安に我が子の未来を迷う母の記事。毎日新聞は扱い的にTOPと同等の印象なので見出しに両方併記した。

この報道を見て、何を想うのかは個人個人の想いもあるだろうけれど、私は正直国内の扱いに対してはこれでいいのか?という想いを持った。鉢呂氏の辞任は、いったい国民のどれだけに影響のあることだろう?東日本大震災の被災状況を半年という区切りでしっかり考察することが、日本の社会のこれからにとってたった八日間の在籍の大臣が辞めることよりもずっと重要なことなのではないか?

対するジャパンタイムズの一面では津波・地震・そして原発という3つの「災害」からの検証と原発にからんでの食糧問題、そして遅々として進まない復興についてをかなりの紙面と図を使用して記述してある。

……このメディアの報道の偏り。そして、震災関連の情報の扱い。
日本がこれから、再建の道を歩んでいくときにこのあり方を見直すべきではないかとそう思う。

3月11日の大震災。
その大きな被害と派生する2次、3次、4次災害……今もなお不明者が数多く残り、遺体安置所が現地にはまだ存在し、職を得られぬもの、避難所生活のもの、その精神や身体の不安は消えてはいない。膨大な量のゴミ、つぶれた車。何より先の見えない、これからさらにその影響が心配される原発の問題。さらにそこから派生した風評被害。経済に及ぼす大きな影響。

半年たった9月11日にがれきの山に囲まれた石巻の地で、14:46に鳴り響くサイレンと共に黙祷を捧げたときに感じた「震災は終わっていない。まだこれからなんだ。」というあの想い。

いまだ先が見えない問題が山積みの今の状況で、私たちはそこから何を感じ、何を学び、そして未来にそれをどうつなげていったらいいのだろうか?

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私たちの「明日」のためにできる事は何か

その団体や、その人間でなくては出来ない事があります。逆に、どんなに頑張っても出来ない事もあります。
それを見極めてできる事を出来る人が、できる範囲でやること。無理をしないこと。大切なのは「頑張ってたくさんやること」ではなく、「想いを長続きさせていくこと」。

では。具体的にはどういうことなのでしょうか。

1、被災地のするべき事

「被害から半年」という区切りの中で見てきたときに、復興の仕方には大きな差が出ていました。
それはなぜか……という疑問の中に、地元の人のこんな声を聞きました。

「場所によって復興に差が出たのは、国やいろいろなところから支援を待って動かなかったところと、自分たちでやらねば、とどんどん動き始めたところの差。」

被害の形はみんな違います。地震の被害。津波の被害。原発の被害。それから風評の被害。
そしてそこから派生する産業や経済の停滞・沈降の有様。人の流れの変化。

だから、一概に「半年」という区切りで比較することは出来ません。けれど、福島での「移動保育プロジェクト」の上國料さんの言葉にもあるように「やってみなくちゃわからない」し、「必要なのは、今」なのです。「自分たちのことは自分で」……慰霊碑を建て、植樹をし、新たな取り組みに向けてどんどん動いていた閖上地区。風評には負けられないとキャラバン隊を組んで全国を回り歩き始めた会津。町が壊滅して、警察が機能しないからと不審車や侵入者、盗難から自警団を作って地域を守ったという石巻。被災地に根ざした地域の新聞社だから、と「伝えること」を第一に地域の情報や現状を訴えている仙台の河北新報。地域の情報を集めてコーナーを組んでいた茨城の書店。「お上からの支援」を待ってはいられない。だから自分たちでどんどん動く。共通していたその姿勢が、明らかにその土地の空気から前向きさと、新しい流れを感じとらせてくれました。

 その土地に住み、その土地を知り、その土地に生きた人たちだからこそ、「どう立て直したらいいのか」が誰よりもわかるはずなのです。だから「自分たちで取り戻そう」とどんどん動くこと。これがまず、とても必要なことだと思います。そうして前に向かって進もうと動くことは、失ったものを思って動けないでいるよりもずっと早くに活気ある心を取り戻すためにも役に立つはずです。

そうして被災地の人たちが自らで動くことによって、「必要な支援のあり方」が見えてきます。「自分たちでやる」事が必要だからと言って、復興を被災地の人たちに任せっぱなしは当然無理に決まっています。心も体も傷ついた人たちの力が「復興」に向かえるように、まわりはそのための環境を整えて力を添えることが大切になってきます。

2、行政のすること……特に「国」
 
この国は、首都東京を中心に動く中央集権国家です。東京から発信されたことが地方に届いて物事が動きます。それがもたらす長所と短所を理解して、やるべき事をしっかり見極めていくことが大切です。

 当然国の中央に「実際に支援活動に動く」事を望むことは無理です。国という大きな組織を動かすには膨大なエネルギーと時間がかかります。だから中央はそれをすべきではありません。国がそれをやると、手続きに時間がかかり、組織を作り実際に動き始めるまでにはかなり手間も金もかかってしまってもろもろが後手に回り手遅れになります。

「中央に物事が集まる」ことと、それを「発信する機能」を長所としてまず活用するべきです。つまり、現地の情報収拾と正しい情報の発信です。避難所の情報を個人や私的グループが集めるにはものすごく困難を要します。しかし、国はそれを容易くできるはずなのです。

 避難所情報を集める。原発の情報や今後の予想も含めてデータを収集する。そのために必要な専門家を集めて分析し、実用化されたデータを流す。どこの避難所にどんな物資が言って何が足りなくて、という「情報」のみを集めて流す。どこのボランティアグループがどんな活動や支援ができるから、どこの避難所や被災地にそれが必要かを見極めて情報を提供する。……そういうことをネットワークを組んでひとまとめでできるのは、国という公的機関だけなのです。

 それから、被災地支援に必要な専門家をその地に派遣する。放射能関連の具体案を提供できる人材をセレクトして福島に送り出す。壊れた町を新しく作りあげるためには、今回の被災の形を考慮して、そういう分析をしつつ町づくりの専門家を派遣する。支援物資の必要なものをとりまとめて企業などに協力を依頼する。動けそうな被災地の会社があれば、そういうところにも依頼をどんどんかけて仕事を与える。

 そして、そのために必要な各地区の役場の人材が、今回の被災で失われたのだったら、各地の役所から人材をセレクトして派遣する。

 情報や人材のとりまとめ。そしてそれを発信や派遣すること。全体を把握して的確にそれができるのは国だけです。それからもう一つ。必要だったら法律を変える。今回の非常時にも、法律にしばられて出来ない事や動けないことがたくさんありました。緊急事態に適応できる法律がない限りは、臨機応変に改訂していかなくてはなりません。法律は守るため(囚われるため)にあるのではなく、社会を動かし、人を守るためにあるのですから。

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「公的機関のやってくれるのを待っていたら、いつになっても始まらない。」……それが、被災地のあちこちからの生の声でした。そしてそれは今回の震災のことに限ったことではありません。今までの社会の歪みを生み出してきたその多くの原因は、公的な機関が臨機応変に動けなくなっていることから起きていることも多かったのです……。

今回の被災地対応でも、国会は非常時緊急で法律を変え、人事を考え、支援金の分配はその地方を知っている人間とその支援に派遣した人間に任せ、必要な情報を集め、それをとりまとめてどんどん発信することができたらこんな風に地域差や風評被害や……隠蔽工作や情報操作などはなくなったはずなのです。

首相や内閣の人事等に無駄な時間を割くような「ヒマ」は、被災地にもこの国全体にも、全くなかったと私は思う。(はっきりいうと、今の日本の政治の状況では誰がTOPでも誰が大臣でもまったく変わらない。ここに書いたことが出来る人をぱっと大臣や要職に起用できるほどの采配も配慮も出来る人がいないのですから。)

そんな状態の国に、何かを期待することや何かをしてもらうことを待つことは無駄だということ、それを私たちは頭に置き、国は国のできる事……机上(情報)の整理と分析と発信に集中してもらい、やることは国民である私たちがどんどん動いていくこと。それが今、必要なことなのだと思います。

そうして、実際にそう動いている人(企業やグループ、著名人を含め)たちが今の復興を支えているのが現実です。本来のリーダーは、こういう中から生まれてくるべきなのです、そして今の時代に、そういう各地の現状をしっかりと掴んだリーダーが、地方を作りあげていくことは十分可能だと思います。

江戸時代に飢饉や災害から民衆を救ったリーダーは、幕府や朝廷ではなく、その土地の豪農や豪商であったという「旦那文化」を持っていた日本ですから。それはきっと出来るはずなのです。

3、メディアのするべき事

 まずは奇をてらった報道や衝撃性のみを追いかけ、視聴率、購読数重視の報道をやめること。そして、情報操作が明らかにあることも今回のもろもろのことからこれだけ露見しているのだから、メディアは自らの報道姿勢をしっかり見直して、本来のメディアのすべきことを再確認することだと思います。

まずは、「正しい情報」を「正しく発信」するだけではなく、「活用できる情報」をしてより多くの人が動けるように、復興へのイメージを持てるように、メディアの持つ伝達力を最大限に活用することだと思うのです。

そのためにはまず、2,で書いたように国が正しい情報を集めてしっかり分析し、使える情報として流すことで、それをメディアが正しく伝えることと同時に、国がもし、中途半端で使えない情報を出したらメディアがそれを「ダメ出し」するくらいの気概を持つべきだと思うのです。それが出来るのはメディアだけだから。

本来は、メディアでも提出された資料を分析し、正しく判断・検証する人間がいるべきだけれども、それがかなわないとなったら、必要な人災に取材をしたり依頼をしたりしてそういう機能を果たすべきなのだと思うのです。「今、国全体が本当に必要な情報とは何か」と考えてそれを伝える。それが出来るメディアだったら、9月11日のトップ記事は震災半年の遅々とした復興状況や先の見えない原発の恐怖に苦しむ人たち、海外からの非難の声……そういうものを伝えるはずだと私は思ったのです。

国が正しく進むために「三権分立」という形が考えられました。(今は正直言うとちゃんと機能していないと思いますが)国が正しい情報を把握し、それをきちんと考えて発信しているかという「情報の見張り番」がメディアのあるべき姿だと思うのです。そうしてきちんと必要な情報を要求し、正しい分析とそれに基づく具体的な復興案を要求し、それを拡げて伝えていく……メディアのできるとても大きな役割だと、私は思います。

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では………

4、私たち一般の人間がすること。

は、なんでしょう。「自分には力がなくて何もできない」と縮こまっている人、恐縮している人もいます。
でも、それは違います。ちゃんとみんなにできる事があるんです。

それを、この次の記事に書こうと思います。

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被災地をめぐっての3日間~6「明日」のためにできること(2)  に続く

今年の夏休み。地元のお祭りと花火に合わせて、姉妹都市である会津若松と、そこで避難生活を送っている大熊町の子ども達に「夏休みをプレゼントしよう」というプロジェクトを行いました。

お祭りの大通りで一緒に踊ったり、特等席で目の前に上がる花火を見たり。
会津の子ども達も、大熊町の子ども達も、来たばかりの緊張した表情がどんどんほぐれてたくさんの笑顔の花が咲きました。

けれど、その子ども達を乗せたバスを見送るとき、とても複雑な気持ちでした。
「大熊町に帰りたい」「福島大好き!」
……あなたの夢は?という質問への答え。ふるさと福島への想い。
福島で待つ家族に、「食べるもの」をおみやげに抱えて帰って行った子ども達。

大熊町の子ども達は、原発の影響でいまだに家に帰ることすら出来ず。
会津若松では、放射能の影響のほとんど無い地区にも限らず今年の観光はかなり落ち込んだと聞きました。
今回の旅の復路に、会津に寄って帰ろう……そう思ったのは夏休みの子ども達の面影が残っていたからでした。

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帰路

仙台空港をぐるっと回って、仙台空港のインターから高速に乗り、仙台とは別れを告げました。
被災地をめぐる旅の3日目、この日は二日かけて走り回った距離を一気に戻らなくてはなりません。ですから本当はもっともっと行きたかったところ、会いたかった人がいたのですが、帰ることに専念するように走りました。

けれど、帰りには会津若松に寄ろうということだけは決めていました。
仙台空港をでたのが11時半頃。そこから高速道路を走って仙台を横切り、東北道に入って来たときと同じルートを南下し、そして郡山の手前の郡山JCTから今度は磐越道新潟方面へのルートに入りました。

山あいの道を進んでいくとやがて左手に開けた場所。そして黄金色の稲穂が見事なその向こうには猪苗代湖。そして右側には会津磐梯山。美しい秋の光景です。
磐梯山に向かっていた磐越自動車道が大きく左にカーブを描き、目の前に会津の町が開けていきます。天気は快晴、空の青さと稲の黄色、そして山々のみどりの色が秋の色を鮮やかに描いていました。

会津若松のインターチェンジをでて会津の町の中に入って会津城を目指しました。お城に向かう通りは整備されていてこぎれいな町並み。大震災の時には会津は震度5だったようだが、道路に若干陥没などあった以外は内陸部で津波の被害もなく、原発から離れているから放射線の影響もなく、福島の中では被害はほとんど無い地域だったようです。

この会津若松が被害を逃れ、ほぼ無傷に近い状態であるのだったら、福島県の復興の先駆けになれるはずの力を持っていたはずでした。けれど、会津若松もまた大きな被害を受けることになったのです。

「風評被害」

これは、天災ではありません。地震でも津波でもないのです。地震と津波という天災によって原発が爆発し、放射線がひろがりました。天災が引き金になったとはいえこの原発の爆発は「人災」です。それこそ「想定外」といってひたすら東電が逃げの姿勢でいたことによってその被害や影響はどんどん拡がってしまいました。

けれど、原発から100キロ離れたここ会津若松はその影響すらほとんど及ばず測定値も問題ない程度のものでした。だから会津若松が盛り上がることで福島県も元気になれたはずなのです。

ところが。こんな記事があります。

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キャンセル相次ぐ観光地からの悲痛な叫び【福島・会津若松】

2011/4/22 17:52

会津からのお願い

3月11日以降、会津から観光客の姿が全くといっていいほど見られなくなってしまいました。

年間350万人の観光客をお迎えする会津若松市は、観光が主要産業といってもいいほどの重要な位置を示しています。しかし全国的に有名な「鶴ヶ城」、白虎隊で名の知れる「飯盛山」さらに、東山温泉・芦ノ牧温泉はキャンセルが続いています。そして、観光施設や土産物屋などからは、閑古鳥が鳴いて悲痛な叫び声が連日のように聞こえてきます。

今さら言うまでもなく、すべて原発による風評被害です。地震と津波だけであれば、次のステップに進むことができますが、この原発の影響は、簡単に乗り越えることができない大きな魔物なのです。(以下略)

全文はこちらから→4/22 Jcastニュース

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焦点/修学旅行 東北離れ/原発事故影響・余震を不安視
2011年05月25日

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修学旅行生の姿が見られない「会津藩校日新館」=17日、会津若松市

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修学旅行が激減し、空きスペースが目立つ駐車場=19日、会津若松市の鶴ケ城会館

 東日本大震災の影響で、修学旅行の「東北離れ」が進んでいる。北東北を訪れる中学校が多い北海道では、多くの学校が道内旅行に切り替えた。余震と福島第1原発事故による影響が大きな理由で、福島県内で予定されていた修学旅行は軒並みキャンセル。東北の中でも行き先を変更する学校が数多く出るなど、事情が一変している。

◎例年の1割未満?/回避の動き、被災地以外も……

(以下略 全文はこちら→河北新報社 5/25記事

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風評被害 観光直撃

参道ガラガラ 会津若松

「客戻したい」懸命の努力

 東京電力福島第1原発事故による放射能汚染の風評被害で、年間350万人にのぼる福島県会津若松市の観光客が激減しています。観光が基幹産業の一つの同市にとって大きな打撃で、賠償要求とともにお客を取り戻そうと懸命な努力がつづいています。

 白虎(びゃっこ)隊自刃の地、市の中心部東にある飯盛山の参道には、観光客の姿がほとんど見られません。土産物店を経営する社長は、「ここはゴーストタウンだ。例年の2割しか客がこない。私の店も売り上げガタ落ちです。店員を6人使っていたが、今は自宅待機させている」と肩を落とします。

 その一方で、固定資産税や消費税が重くのしかかり、業務用で基本料金が高いガスや水道料金は節約しても大きな負担です。

 同地の土産物店や関連業者などでつくる飯盛山商店会はこの間、「地域経済活動は壊滅的だ」として、東電に損害賠償請求に応じるよう要求。県や市に小中学生の教育旅行(修学旅行や体験学習、林間学校など)の推進、税の減免などを陳情しました。

修学旅行中止

 「修学旅行先として会津若松市に32年間ずっときていた首都圏のある中学校が、父母の一部から『今なぜ会津なのか』と異論が出て、変更になった。がく然としました」

 こう語るのは、会津若松観光物産協会(258会員)の渋谷民男統括本部長です。

 同市観光の軸となっている教育旅行の受け入れは、昨年1081校、約8万人だったのが今年は激減し、4~6月に県外27校、秋の予約44校、全部で70~80校と1割にも届きません。

 市観光公社の会津鶴ケ城天守閣グループリーダー、新井田信哉さんによると、例年だと鶴ケ城の観光客100万人のうち60万人が天守閣(有料)まで上ります。しかし、大震災・原発事故直後から1カ月ぐらいは7割減、その後、重要文化財などを一挙公開する「歴代城主展」など企画展も充実させる努力を重ね、やっと3割減まで戻しました。

(以下略 全文はこちらから→2011年7月27日(水)「しんぶん赤旗」

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私たちが訪れたのは9月12日、月曜日。平日のせいかと思ったのですが、それにしても会津城(鶴が城)の駐車場はがらがらで、設備は整っているし地震の被害も影響もほとんど無いのに他の被災地よりも寂しい感じでした。

会津に着いたのが14:30。仙台を出てからお昼も食べずにここまで来たので、おなかがすいて「まず何かお腹に入れよう」と鶴が城の休憩所で軽食を食べることにしました。

食べたのは会津ラーメン。しょうゆ味で和風のだしがきいてあっさりした美味しいラーメンでした。そのラーメンを食べながら、見るとはなしにそこで流れる鶴が城の紹介ビデオを観ていました。その歴史を語るビデオを観ているうちに、私は何となく、この会津のお城や地域の人々の今が、江戸時代の最後の闘いに重なってくるように思えてきたのです。

会津城(鶴が城)は、その前身が黒川城といい、伊達政宗や上杉景勝、保科正之などの名だたる名将が治めてきました。江戸時代末に幕府軍として闘い、あの白虎隊の悲劇などは今も語り継がれる物語です。

幕府軍と政府軍は、ずっと小競り合いを続けて来たものの、慶喜の大政奉還と江戸城の無血開城とによって大きな戦が起こることなく政権は静かに天皇の元に戻りました。けれど、結局双方それではおさまらず、会津での決戦となったわけです。新政府軍の最新兵器による攻撃にもこの城とそれを守る人たちは1ヶ月も堪えました。

その江戸時代の最後の闘いでぼろぼろに傷ついたものの、会津の象徴としてこの鶴が城は地域の人々に愛され、再建され整備されて今もなおその姿を美しく保っています。

天守閣にのぼれる入場券を買うと、特別記念展をやっているということで美しいお箸を記念にいただきました。赤と黒のグラデーションが美しく紋の入った立派なお箸です。「赤と黒」の色もお城にちなんでいます。入った中の展示は、とても充実していて見やすくわかりやすいものでした。5層の天守閣のてっぺんで、会津の地が一望できました。
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明るい秋の日に照らされて、山のみどり、町並みの色が輝いていました。静かでした。そして何よりもこの町には温かさと誇りと美しさがありました。

途中で私はカメラのレンズキャップを落としてしまい、半分諦めながらも入場券売り場で聞いて見ると、「それはさっき私が拾ったのだと思います。入口の観光案内所に届けておきました。」丁寧な対応に感謝して案内所に取りに行くと「ああ、これですよ、どうぞ。あってよかったですね。」と笑顔で手渡してもらえてすごく気持ちがよかったこと。

息子が会津名産の絵ろうそくで、欲しい絵柄があったのでそれをを探して販売元を訪ねてみたら、そこは小さなお家。家族で製作して出しているようだったのですが、そこにも欲しい柄がなかったのですが「じゃぁ、ここに行ったらあるかもしれないよ」といろいろと丁寧に教えてくださったこと。

風評被害で観光客もまばらでしたが、そこにいる人たちの優しさと温かさに触れるたびに会津の町並みがなぜこんなにも美しいのかがわかったような気がしました。

江戸の末期の闘いでぼろぼろに傷つき廃城となったこの鶴が城。けれど町並みはその城をよみがえらせそれを中心に広がり、その城を誇りにして人びとは生活してきました。その闘いと、風評といういわれのない攻撃に対して戦っている会津の人びとの姿は何となく重なってきます。そして、幕末から明治の動乱期を乗り越えて今の世に堂々とたっているこの鶴が城のように、風評被害になど負けずに会津はまたちゃんと立ち上がるんだ……という想いをこのお城が象徴しているように思えてきたのです。
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お昼の時に見たビデオ。それからお城の中の展示。お城や町で出会った人々の想い。
会津にいた時間は本当に短かったのですが、その短い時間にも「会津は負けない、会津は立ち上がるから」というこの土地からのエネルギーのようなものをあちらこちらから感じたのです。

そう、まるであの小さな起き上がり小坊師のように………。

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会津のパワーを見せてくれる一つの資料があります。会津若松市のHPからの転載です。

会津若松市風評対策キャラバン隊があなたのまちに参上します!!
最終更新日:平成23年7月26日

東日本大震災からの復旧・復興のため、会津若松市の農産物や、民芸品、加工食品を展示・即売したり、会津地域の観光PRを行う会津若松市風評対策キャラバン隊が東京をはじめとするみなさまのまちに伺います。

「会津を応援したい!」皆様、お近くにキャラバン隊が参りますので、どうか応援をよろしくお願いいたします。
※本事業は福島県緊急雇用創出基金事業「風評対策キャラバン隊活動事業」により運営しています。

実施期間  平成23年7月1日から平成24年3月31日

(映像が表示されない場合はこちらから)→会津若松市風評対策キャラバン隊出発式

記事全文はこちらから→会津若松市風評対策キャラバン隊

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三日間の旅で訪れたい場所はすべてまわりました。本当は、時間に余裕があったら帰り道で高速を降りて、3月12日に日を一日またいで大地震に見舞われた長野県北部の栄村を通って帰ろうか……という気持ちもありました。
(最初にアップしてある地図参照)

栄村の被害については、東北の大震災の影であまり報道されず、今回も出会った人たちほとんど知らなかったのが現実でした。けれど、東北各地をめぐるうちに息子や娘と一緒に語ったのが、「じゃぁ、私たちの長野県の栄村の今はどうなのだろう?」という想いでした。

様々な被災地の様々な被害の形を見てきました。そこに生きる人たちの生活の一部を感じて来ました。そして、そこから被災地がこの先どうあったらいいのか、私たちがどう支援をしていったらいいのか、という部分が少しずつ見えてきました。それは、今回の被災地だけではなく、「日本の社会」のこれからにもつながるとても大切なもののような気がしています。

そう思ってきたときに、栄村の姿やあり方からも、大きなヒントを得られそうなそんな気持ちがしています。

「10月になったら今度は、栄村とその周辺にも行ってみよう」

帰りの車の中で、ちょうど上りはじめた「中秋の名月」を眺めて帰路をひた走りながら、三人でそう決めました。

(この区間の写真はこちらから→東北の旅ラスト〜会津若松9/12
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被災地をめぐっての3日間~6「見えてきたもの」 に続きます。

3月12日。
朝はやや雲が残ったものの、昨日の天気とはうって変わって快晴になりました。
仙台の町中は、ごく普通の月曜日の朝の風景でした。仕事に向かう人たち、一週間の生活のはじまり、そんなどこにでも見られる光景がホテルをでて次の目的地に向かう私たちの車のまわりで繰り広げられていました。

けれど、ごく普通の生活と見えるその裏を細かく見ると、やはり震災の傷跡はここかしこに残っていました。

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11日の一日で見たもの感じたものは、それはそれは大きく様々なもので、自分の中でとてもまとめのつけられるものではありませんでした。ですから、この3日間を迎える前には、「被災地をめぐって感じたことは、その場でリアルタイムに流して行きたい」と思っていたこの旅の記録も結局できなくなりました。

………それもやはり「想定外」の一つでした。

その場でぱっと感じて記録をとって、さっと流せるような簡単なことではない……そんな軽いものではない……ということが、よくわかったのです。
初日の茨城でもそうでした。そこの「今」を感じられる写真や映像を撮ったらすぐに流して……と思ったのですが、まず、受けとめるだけで精一杯でした。目の前に広がる光景を自分の中でしっかり受けとめて、そしてそれをきちんと伝えるために……できるだけ、見てくれる人たちにそこにある想いや祈りまで含めてしっかりと伝えるためには、「即時性」よりも「正確さ」「誠実さ」の方が大切だと思ったのです。

そのかわり、できるだけ細かくすべてを目と心に焼き付けていこう。写真や映像では、その場の姿を写し取ることができても、その場に流れる空気感、臭い、感覚、温度、そういう雰囲気は伝えられません。写真や映像でとらえられないそういうものをしっかりと自分で感じとって、そこで得られた情報と共にできるだけまっすぐにこれを見る人たちに伝えよう……「リアルタイム情報」を流すのをやめたのは、そういう想いからでした。

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ホテルをでた私たちが、この日まず向かったのは仙台空港でした。
本当は石巻の帰りに海岸沿いを走ってそのまま仙台空港まで……と思っていましたが、時間的に着く頃は真っ暗になってしまって何も見えないだろうと諦めて、代わりに2カ所ほど別の場所をまわってホテルに戻りました。(その事についてはまたのちの記録に書こうと思います。)

仙台空港まで、仙台市内からナビで検索したルートは、ずっと内陸部を走るものでしたので、途中から海岸に向かって海沿いを走ってみようとナビを無視して海の方に走りました。そうして、海に向かって走っているうち、目の前に見えたもの……「あ……船だ!」……。

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(このあたりの様子は、一番最後にリンクしてあるアルバムのほうでご覧下さい。)

道の横に交通の邪魔にならないようにと退けられたような形で船が置いてありました。置いてあると言うよりも取り残された、というのでしょうか?けれど、まるでそれは「ここが港町ですよ」と言うことを示すオブジェのように静かにそこにありました。

海岸に近づくにつれて、船が見える頻度も増えてきて、それにつれて壊れた建物が道のまわりに目立つようになり、やがて、その建物すらまったく見えなくなってまるで新たな宅地を造成しているような更地になりました。車で進んでいくと目の前には大きな川があってそこが道の突き当たりでした。そして、その川の向こう岸ではたくさんのショベルカーが作業をしていました。そこはたぶん、廃棄物の処理場だったのでしょう。しかし、私の目には、まるでたくさんの恐竜がうごめいているかのように見えました。不思議な光景でした。そして、壮絶な光景でもありました。でも……その光景が前日石巻で見た光景から感じた「悲惨さ」とは違うものを感じたのです。厳粛な美しさ……がありました。(美しいなどと言うと語弊があるのかもしれませんが、本当にそう感じたのです。)その理由がわかるのはもう少し後になります。

この日、午前中に走ったルートはこの地図に示してあるルートです。

仙台全体

空港に向かう途中に海に向かってまっすぐ走ったところ行き当たったのは名取市の閖上(ゆりあげ)地区でした。
私が大きな川だと思ったのは、閖上漁港で広浦という入り江につながる部分だったのです。

あたりはまっさらで……乾いた土がひろがっていました。照りつける太陽に埃が舞い上がってその有様は、砂漠の遺跡発掘をしている場所のように思えましたが、よく見ると大きな電信柱が規則的に並び、たぶんこのあたりは津波前にはかなり大きな整備された町であったであろう事が想像できました。

この地区は本当に真っ平らなのですが、一カ所だけ小高く盛り上がった場所があって、そこにはのぼってみることができそうだったので、娘とのぼってみました。石段を登るとその上には、沢山の慰霊の塔と花束が捧げられていました。それがこの地図の「日和山富士主姫神社」です。(ここもまた、日和山なのですね……)

その上で撮った映像です。

ビデオ→9/12閖上地区日和山富士より

この日和山の上には小さい祠が建っていたそうですが、津波はこの高台にも襲いかかり、祠は流されてそのあとに別のお家が流されて残されていたそうです。

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(3月20日時事通信社HPより転載)

そして、4月11日には自衛隊の方や僧侶などがこの日和山の上で黙祷を捧げたそうです。これがその時の写真だそうです。

bp1-2.jpg(Japan’s crisis: one month laterより)

最後に……ネット上を探していて、ようやく見つけました。被災前の閖上地区です。
本当に美しい町だったのですね……。
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AerialPhoto Galleryより)

日和山富士の上には本当にたくさんの祈りがありました。
娘と2人で手を合わせ、ここでも黙祷を捧げてきました。

車で待っていた息子と落ち合って、閖上地区から仙台空港に向かいました。
そこでも、道のあちこちに……田んぼだっただろうところに……船。

その写真はこちらにおさめてありますのでご覧下さい。
アルバム9月12日仙台から閑上地区を通り仙台空港へ。

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今、この閖上の記録をまとめながら思いました。
なぜ、閖上の被災地あとから美しく厳粛なものを感じたのかを。

閖上の地区を走っている間、その被害のすごさに壮絶なものを感じました。まったく何もなくなってしまった町。津波の恐ろしさ。そこに住んでいた人たちの破壊されてしまった日常。それを想いつつ、日和山富士に登ったとき、目の前にはやはり壮絶な光景が広がっていましたが、それはとても整えられていました。

半年の年月が過ぎたということもあるのかもしれません。けれど、とにかく町は「動いて」いました。ショベルカーやクレーン車のような重機の音、それに混じって遠くから聞こえる船の汽笛。

重機は確実にそして傷跡をいたわるように土地を整えていました。かなり暑い日でしたが、臭いは一切しませんでした。かなり深く傷を負ったけれど、その傷を治そうと一生懸命に治療しているさまが、その気配が感じられたのです。

それは、日和山の上でも感じました。
たくさんの慰霊塔。その塔に添えられた花束に、枯れて醜くなったものは一つもありませんでした。
そして、日和山に新しく木が植えられていたのです。
閖上小・閖上中の子ども達が植樹したものでした。

「新しいとき」のために、失ったものを痛み、惜しみながらけれど明日のために新しい木を植える。
その想いがこの日和山だけでなく、閖上の地区のあちこちから感じられたのです。

石巻で日和山に上り、そして偶然通りかかった閖上のこの高台も日和山。
同じ日和山にのぼって見て、感じたまったく違う感覚。
閖上の日和山から見えたのは……「絶望」ではなく「祈り」「誓い」「明日」でした。

これは、わたしだけの感覚かもしれません。
でも、閖上の日和山の上でまわりをみていたほかの人たちも、同じ感じを持っていたのではないでしょうか。
誰1人、静かに高台からまわりを見回してしゃべる人はいませんでした。
その雰囲気は、まるで教会の礼拝の時のような……祈りの時の感じととてもよく似ていたのです。

ここは、きっとまた元気に立ち上がる。
この祈りの心と明日を想う心があるから……。
だから、きっと大丈夫。

……今、閖上の記録をまとめながらそんな気持ちにさえなっているのです。

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被災地をめぐっての3日間~5会津若松  につづく

今回のブログは、書くことにものすごく配慮せねばならない。
「フクシマ」の被害は明らかに他県とは違うからだ。

津波被害、地震被害、これらのものは目に見える。だから情報が無くても目で確認することはできる。
しかし、フクシマが背負っている被害にはこれらにくわえて「放射能」という目に見えない敵がいる。目に見えないものはわからない。わからないから恐ろしい。……それは、人が根本的に持っている恐怖心を煽るものであるからなおのこと根が深い。それが「風評被害」にもつながっていく。

たとえば、病気にたとえると骨折のような怪我や風邪ひきのように視覚的に感じられる病気は理解しやすい。けれど、うつ病のような精神的なものや、内臓の疾病のような外から見えないものは見つかりにくいしわかりにくい。そして自分も他人も理解しにくいから治りにくいし治しにくい。治療方法についても、専門家でないとわからない部分があるので手の施しようがない。……それが、今回のフクシマの陥っている状況なのではないのだろうか。

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9月11日。
この日朝、水戸を出発して常磐道を北上しました。
この日の第一目的地は福島県の郡山。

最初の計画では、常磐道をできるだけ北上して海岸沿いを宮城まで……と思ったけれど、原発の影響で立ち入り禁止になっている区間があります。どこまでかを調べてみたら広野インター以北とのこと。そこまで無理して入り込む必要は今回はないし、仙台近辺の状況をよく見るためにもルートは常磐道から磐越に入って東北道を北上するルートに決めました。

参考までに。
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その折に福島の郡山近辺を通ります。そこでFacebookで知った「福島移動保育プロジェクト」の活動に取り組んでいる上國料竜太さんが、郡山で活動していらっしゃるので、上國料さんにお会いしてお話を聞くことにしたのです。

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福島移動保育プロジェクト」とは、毎日放射能の汚染におびえて深呼吸もできない子ども達に深呼吸できる時間を!というコンセプトのもとに、放射線量の少ない地域に乳幼児~小学生を連れて行って保育する試みです。

あの原発の問題以来、ここ郡山近辺でも外で遊ぶ子ども達の声が消えたそうです。
上國料さん自身のお子さんも30分以上は外で遊ばせないようにしているし、ご自身が預かっている保育所のお子さんたちも同様だそうです。

そんな状況にありながら、ではさっさと安全な場所へ……といってもそれぞれの生活や事情があって、なかなかそれも出来ない人たちがほとんどです。けれど、子ども達は外で元気に遊ぶことが一番。思い切り飛び回ってお腹いっぱいに空気を吸うことができるように。せめて昼間の保育の時間だけでも……そういう想いから上國料さんはこのアイディアをFacebook上に書き込んだのが7月23日だそうです。

そこから2~3週間の間、お金のこと、システムのこと、様々な問題をクリアして約1ヶ月後の8月30日に第1回目の移動保育が実施されたのだそうです。

しかし、このプロジェクトが確実なものとなって行くにはまだまだ課題は山ほどあります。
たった一回の移動保育で子ども達の安全が守られるはずもなく、永続的に長いスパンで取り組まないと意味がありません。そのためにはまだまだ費用も必要ですし、常に放射線に関しての情報も得ていなくてはなりませんし、子ども達に対しての様々な対応も必要です。

現在は主にFacebookを使って活動の報告や支援の呼びかけをしていますが、こういうことに対しては民間の反応がとても早くて、いくつかの協力企業も出てきているそうです。また、飲料メーカーとの協力も得て自販機の売上げの一部を運営費として活用できるシステムも組まれているそうです。

こうしてシステムを確実なものにしていき、今現在は1人500円でお預かりしている費用をいずれは無料にしたいと上國料さんは語っています。

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「結局、他県に頼る支援のあり方は長続きしません。県外避難には限界があります。本当の意味でフクシマの復興のことを思うのだったら県内で経済がきちんとまわる仕組みを考えないと成り立たないと思うのです。」

上國料さんのこの言葉は、その後の被災地の状況を見て回るほどに私の中で重みを増していきました。被災地のことを何よりもよくわかっているのは、そこに生きる人たちです。その人たちがきちんと生活できる状況を作らないと本当の意味での復興は成り立たない。

原発問題に悩むフクシマのみならず、この言葉は被災地や、そしてこの先どんどん大変さをましていく日本の社会全体に対してもしっかりと心に留めなくてはならない言葉だと感じました。

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この訪問の時に、上國料さんが私に見せてくれた一枚の資料があります。

26julyJG.jpg「放射能汚染地図」とタイトルされたこの資料は、群馬大学の早川教授がまとめたもので、3月以降大気中に放出された放射線量を4月8日に文科省がネット上に公開した数値データをもとに作られた物で、これを見ると爆発以来どんなふうに放射能が風に乗ってひろがったのかがよくわかるのです。

そして、これを見ると「フクシマ」だけが問題なのではなく、東日本の多くが何らかの影響を受けていることも、また「フクシマ」の中でも安心して活動できる場所があることも一目でわかる地図でした。詳細は、この地図を作った早川教授のブログ「放射能汚染地図の読み方」をごらんください。

ちなみに、先ほどの政府が示した「30キロ圏内」の注意地区の地図とこの日、郡山に向かうルートとこの地図を重ねてみると………

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こんな風になるんですね。

実は、今回「フクシマ」を通ることに、私の息子はとても恐怖心を持っていました。そして、水戸で夜のご飯に「海に近いからお魚美味しいだろうし、お寿司食べようか。」と言ったら「絶対嫌だ」と言いました。息子は、今回の旅行に当たって彼なりにいろいろ調べていたようです。そして福島原発から放射能の水が海に流れたこと、風の向きで30キロ圏内でなくても放射線量の値の高い地域があることなどから「怖い」になったようです。

それに対して私は「今回通るところは30キロ圏内からははずれているし、大丈夫だよ。」という声がけしかできませんでした。その「大丈夫」の中には、「高速道を通過するだけだから」というニュアンスも含まれていたわけです。それは確かにそうなのでしょう。けれど、3月以降放出された放射線はその土地土地の土壌に染みこんで、それが時には風に舞う塵に乗って、時には海の流れに乗って、この先も消滅することなく回り続けます。

それは「ここは30キロ圏外だから」という言葉で安心できるものではありません。そして、そのばらまかれた放射線の有り様は、政府からはわかりにくい数値データとしてしか提示されてきません。さらに、その放射線に汚染された土壌を除染するシステムも充分ではありません。ここに来て、以前みた東大の児玉教授の「子ども達のために」と必死で声を荒げて訴えていたあの声がより現実味をまして迫ってきました。

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一方でそういう事実をふまえながらも考えなくてはならないことがあります。それが「風評被害」です。

先の汚染マップで示したように、放射線の流れは福島のみに降り注いだわけではありません。そして福島の中でも流れが届いていない地域もあります。「福島」という発音だけで恐れを持ってしまう状態は避けるべきなのです。

上國料さんが行う移動保育は、決して他県に連れて行くというものではありません。同じ福島県内で深呼吸も土いじりもできる土地もちゃんとある。

一方で「被害」はわたしたちにも及ぶ可能性がある。「自分たちももしかしたら」という感覚を持ってこの問題を福島だけのものにしてはいけないのだと思うのです。世の中には流れがあるから、すべてのことはその流れの上にあるから、いついかようにしてその流れが自分に向かうのかは誰にもわかりません。正しい知識で防いでいかないと、いずれは日本全体がその影響を受ける可能性は充分にあります。

福島の人びとは、福島で生きるから自分たちが今の状況の中でより良い明日のために精一杯戦っています。それを単なる「恐れ」だけで避けるのはその頑張りを踏みにじることになる。
かといって、じゃぁ、「福島のものを怖がらずに食べましょう」も違うと思うのです。今の福島にとって、何が必要なのか。どうしたら福島の経済が回り出すのか。「今」を正しく見た上で防ぐべきところは正しい知識で防ぎ、けれど必要以上に恐れることなく考えていくことが大切なのだと思いました。

ちなみに、先に書いたように「福島」を恐れていた息子は、この旅の帰り道で会津若松に立ち寄ったときに、「ぼくは福島でまだお金を落としていないから」と、会津の名産の絵ろうそくを求めるためにあちこち奔走していました……。こういう形の支援を彼は考えていたのですね……。

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「とにかく、考えていても始まらないから。」

移動保育プロジェクトを立ち上げてあっという間に第1回までこぎ着けた上國料さんはこう言いました。「公的な補助なども考えないのでしょうか?」との問いに、「公的な補助を待っていたら時間がかかりすぎますから……。」と答えました。

今までの状況を見ても、それはよくわかります。考えていても始まらないし、子ども達の健康を考えたら国のなかなか進まない支援などあてにせずに一刻も早くやらねばならない。

今回のこの移動保育プロジェクトに限らず、そして福島の人びとの健康に限らず、この問題は日本全体に大きな影響をもたらすものとして一刻も早く意識を持って、正しい認識を持って、みんなで取り組んでいかなくてはならないことなのだ……たとえば風評被害を減らすために正しい知識や情報を学び取ること、それだって大切な支援の一つだ……。と、そう思ったのです。

そして願わくば、こういう正しい情報を正確に一刻も早くに公表できる日本の国であって欲しいし、除染など専門知識や技術が必要なジャンルに必要な専門家が必要なだけ動けるような体制を整えて欲しい……。(今現在、国が出してくる情報よりも海外からのものの方がわかりやすく信憑性があるのが現実です。海外の情報のように「わかりやすく」「活かしやすい」情報をなぜ自分の国のニュースで得られないのでしょう?)

国や公的機関自体がすぐに動けないのだったら、今それぞれでできる事を精一杯頑張っている人たちに活動できる資金やシステムを整える支援を即座にとってくれたら……。それが何より大きな支援になるのに……。

その部分についてどうにもままならない国や東電の姿には、やはり怒りすら覚えるのです。

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福島移動保育プロジェクトは、現在活動用の募金を受け付けています。また、スポンサーも募集しています。

民間で頑張っているこういう活動が多くの人に支えられて未来を開いて行かれるように、多くの人の協力が得られるように祈りつつ、上國料さんと別れを告げて次の目的地仙台~石巻に向かいました。

福島移動保育プロジェクトの詳細や活動の報告などはこちらのページからどうぞ。

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被災地をめぐっての3日間~3石巻・仙台 へつづく

Photo提供:「笑顔プロジェクト」HPより 女川第一中学校から見下ろした光景

Webマガジン【N-gene】ライターとして5回に分けて掲載し続けていた「笑顔プロジェクト」の記事の5回目を先ほどアップしました。

長野県小布施町にあるお寺、浄光寺副住職の林さんの取材をしてから「これは書かなくては、伝えなくては」という衝動に押されて記事自体はあっという間に書き上がりました。

いろいろあったけれど、とにかく、震災から丸2ヶ月後の今日、最終の5つめをあげて、「何ができるの?」と焦りの中にいる人たちや「今どうなっているの?」とわからないなか次第に忘れてしまいつつある人たちに、改めてその実際を知って欲しいと強く思って書いた記事です。

もしもこの文を読んで、共感したり何か考えるところがありましたら。
どうか、周りの人たちにも投げかけてみてください。

「自分たちは、被災地の人に背中を押されて必死でやっているだけです。」

そういう笑顔プロジェクトの人たちは、やっぱり同じように「自分には何もできない」と口にしていました。被災地の人たちの想いや辛さを解消することは、たぶんどんなにお金を積んでもどんなにものがあってもできないことなんだと思います。

でも、こんな風に「想うこと」……被災地の人たちに想いをよせること、忘れないでいること……それだけでも、1人1人のできるすごく大切な事なんだと、わたしは災害後のもろもろを見ながらそう想います。

そうして、災害で失われた命に学び、教えられたことを風化させないことが、被災地の人の心を明るくし、被災地だけではなく私たちの生きるこの社会全体を明るく元気に……正直、災害前にはかなりねじ曲がった状態だった世の中を少なくとも「おかしいところはおかしい」と気がつける状態にするきっかけになるのではないかと強く想います。

無くなった命は取り戻せない。
でも、心に残すことでその命は永遠を手に入れます。

数え切れないほどの被害者の命を私たちは受けとめて、そうしてこの先を生きる事。

それが私たちに出来るただ一つのことなのだと想います。

偉そうなことを言えるほど、わたしは何もできません。
けれど、こうして自分の想いを記述して提案し、それについてを「考える」こと……わたしにできる事はそれだけですが、それしかできませんが、それをし続けたいと想います。

本当に、自分の力の小ささを思い知らされた今回でした。
いろいろな意味で、自分には何も力がない。
けれど、できる事は……小さくてもできることは、自分にしかできないことは、絶対にあるはずだ。
それをしていくことだけはあきらめたくない。

……そう、強く感じました。

どうか、よろしかったら最初から最後まで読んでやってください。

【N-gene】記事
被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」
その1 その2 その3 その4 その5 

今朝、目に止まった一つの記事があります。

Silenced by gaman」……「我慢という沈黙」

Japan: Silenced by gaman | The Economist より

すみません、これ、私が勝手に意訳したタイトルなのですけど、文面を読んでいて日頃強く感じていたことを思い起こしたので、こんな風に訳してみたのです。(もっと適切な役があったら是非教えてください)

記事の内容は、大約ですが「日本人は昔から我慢が美徳とされている。けれど、それが果たして『美徳』としてもてはやされていい物だろうか?」という投げかけから始まって、先週までに東北地方に投げかけられている三つの『課題』についてを考察しています。

一つ目は4月17日に東京電力の「当面収束に半年〜9か月」という発表について。

二つ目は4月14日に菅総理が行った「東日本大震災復興構想会議」について。

三つ目は、「エネルギー政策」に対する国のあり方について。

この三つの観点で考えた時に、日本の人は「我慢」という美徳の名の下にこれ以上沈黙を続けるべきなのだろうか?という投げかけの記事なのです。

この記事の最後にはこう記述してあります。
”If they are finally running out of gaman, it might be a healthy sign.”
(もしも彼ら(東北の人びと)が我慢の限界にきたら、それは正常なことなのではないでしょうか。)

私は常日頃から思っていたことがあります。「日本という国ではなぜ、革命が起きないのだろうか?」……と。

かなり過激なことだと言われるかもしれません。でも、ずっと人間…、日本やこの地球の歴史を見てきたときに、人びとは耐えられない圧力に対して「抵抗」という術を持っていました。それは時に暴力をともない、人を傷つけたり時に血を流し命を奪ったりという悪い形ででてしまう事もありました。

けれど、もしもそれがなかったら……「抵抗」という抗議の声がなかったら、私たちの今の幸せな「普通の生活」は成り立っていなかったんだろうと思います。

ここにあるのは「上」と「下」との関係。為政者と民衆との闘い。力のある者とそうでない一般の者との闘い。……というように、立場の違う者同士の間に起こる「不理解」がもとになって出来る「不整合面」の不自然だったり理不尽だったりする圧力からの解放……。つまりは、今回の災害の原因になっている「地震」の起こるメカニズムのようなものなのです。もっと言うと、「自然現象」の一つ。

ところが。
第二次世界大戦が終わり、日本が負け、そしてそこから立ち直ろうといわゆる「挙国一致」状態で日本が高度成長を遂げた頃から……いつの間にかこの「自然現象」は見あたらなくなりました。私が成長してくる過程で、東大の紛争・連合赤軍、そういうかなり衝撃的な「革命」の見出しが新聞記事に踊りました。

決してそれを肯定しようとは思いません。だけれども、そこにあった「エネルギー」は……「生きている人の力」を感じさせてくれる命の爆発は……強烈な印象を子供心に、そして社会全体に投げかけていたのは確かです。人の命を危ぶませ、暴力により世の中に一石を投じるという革命のあり方は推奨されません。けれど、「それしか訴える手段がなかった」状態に陥った社会にとってはこれほどの命の爆発が必要になっていたのは確かだろうと思います。

ところが、ここ数年。
日本という国とその社会全体は明らかにおかしな方向に迷走し、人や物の命の重さ・その熱さが忘れ去られ、かなりの「不整合面」があちこちで発生していたのにもかかわらず、「革命」は起きない。暴力に限らず、人びとはどうにも「あきらめ」てしまい、下を向き、そして自らの内面に向かって心を病み、命を絶つような状況が多発していることに対しても次第に「不感症」になりつつあった。

つまり……「怒っても当然」のことに対しての「怒り」さえも、失われつつあったように思います。

この記事を読んでいてそれを思いました。被災者の人たちは怒っていいんだと思います。それは、天の与えた災害に対してではなく、そこに至るまでの社会のあり方と、災害のあとの国のあり方に対して。

怒りは必要です。
「我慢するべき」怒りは当然ありますが、「我慢してはいけない」怒りもあるはずです。
その怒りが、社会や世の中を進めていくのですから。前進させるのですから。

かつては、人は力によってしかこの「訴える力」を持てなかった過去もありました。けれど、今は違います。ネットがあり、様々な表現手段が許されている今は、力に頼らずとも言葉や行動でそれを表すことができるはずです。下を向いているのではなく、正しい視点を持って正しい情報を集め、そしてそれをきちんと受けとめることができる人たちがどうしたら伝わるのか、どうしたらそれを形にできるのかを考えて集約することができるはずです。

エネルギー論争も、本来のこの日本の力を持っていたら原子力に頼らなくても太陽光などのクリーンで自然なエネルギーを大きなパワーに変えることが出来る力はあるはずだと思います。かつて日本がそれほど電気に頼っていなかった時代の状態を想い出してみたら、「電気が必要」な部分と「必要でない」部分をきちんと見分けて電気に頼らない社会が生み出せるはずです。

(実際、「節電状態」の今、真夜中が暗く星空が見える状態の快適さを想いだした人も多いのではないでしょうか)

人びとの応援の声が莫大な支援金となって形になっているのだから、それを「この先の復興」という大きな目標のために被災者の立場に立って、その目線や視点から有効に活用して行ったら、それが形になったら、失った物に心を寄せながらより温かく人の血の流れる町づくりが可能になっていくはずです。

たとえば、先日目にしたこの記事。
東日本大震災:家電6点セット購入に 赤十字社の義援金

果たしてこういう義援金の使い方が、寄付した人びとや、もっと言うと被災地の人びとの「本当の望み」にかなっているのかどうか?そういう観点で物を見たときに、「我慢」するべき事と「我慢しなくても良い」部分に対しての観点がどうにもずれているように私には思います。お金の使途を決めるのは、赤十字や国ではない。寄付した人たちの想いと、それを受けとめた被災地の人たちの本当の意味での「復興」……元気な世の中に戻るための力になる、という観点で考えるべき事なのではないでしょうか。

そのために、私たちは……自分の持っている「きちっと自分の足で立って歩いて行かれる社会」に必要な物、そのイメージを最大限に生かして拡げて、力にしていくことが大切なのではないかと思います。

確かな視点。
目先のことに囚われない、長い目で将来を見つめる目。

「我慢すること」は、人から押しつけられるのではありません。
「我慢」とは、自分の目標に向かい、明るい未来に向かうときにそれをかなえるためにすることであって、あきらめるためにする物ではありません。

我慢して下を向くのではなく、前を見つめて歯を食いしばって進む我慢。

自分と社会全体の進むべき方向の基準に基づいて「我慢すること」を自分で決め、確かな視点と方向性を持って今、力強い復活のイメージを目指してみんなで一緒に歩いて行くときなのではないでしょうか。

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最近、本編は休止状態でコラム「INTERMEZZO」ばかり書いていますが、このご時世と言うことでしばらくご容赦ください。たぶん、「イメージする事」の大切さや過去に学び、前に進むためにとても大切であることを「今この時」考え粘らない状態なのだと思います。だから、本編は一休みして、今この時に皆さんと考えたい事、考えるべき事をしばらく記述していこうと思います。

子どもたち

Photo : Midori Komamura

「ダメです、服が汚れるから。汚いでしょ。」「そんなものに触るんじゃありません。」「危ないからやめなさい。」

そういうセリフにさえぎられて泥だらけの子供たちが減っていき、何より今は、「泥」に触れることの出来る水たまりさえも見あたらなくなりました。日がくれるまで集中し、時を忘れて熱中し、一番星を見て帰る時を想い出し、あわてて家に走って帰るという姿もどこにもなく。「今日は○○ちゃんと競争して、ぼくの方がいっぱいじょうずにつくったんだ」などとお母さんに夢中で報告することもなく。

「太陽は、東の空から昇って西に沈む」ことがわからない。(驚くかもしれませんが、そういう子どもはとても多いのです。)計算や知能テストのようなものは上手にできても、自分のことについて話すことや書くことの表現ができない。

嬉しい、悲しい、楽しい……感想文を書くのにすごく苦労する。「どっちの方がいくつ多いのか」プラスやマイナスの感覚がなかなかつかめない。中学生でいまだに掛けると足すの意味の違いがわからない。

柱の体積は底面積×高さ、だけどなんでそうなるかわかっていない。積み木を積み上げる感覚を思い出せばすぐわかるのに、なぜそうなるかわからないから公式を忘れちゃったら計算ができない。

今の子供たちを見ていると、そういう知識のアンバランスさを感じます。経験から来る学びが限られていて、教科書に書いてあることが実際の事象と結びつかない。

紙の上、机の上だけの学びは決して生きる力に結びつかないのです。それは五感を働かせることがないままに来てしまったからです。目で見るだけでなく、からだ全体で覚える訓練をしていない今の子供たちは、書いて覚えることも読んで覚えることも、「見る」という動作とつなげることもできない。だから「考える」という脳への指令を出すことができない。

結果「何で勉強なんか必要なの」と思う。その理由も見つからない。

脳はいかに知識や記憶を増やしていくか。脳の細胞と細胞を繋いで行くシナプスという枝の働きです。それがより多くより密に張り巡らされることによって脳細胞の動きが確立していきます。それにはより多くの刺激=経験や体験が必要で、机の上の学びだけでつながるのはごく限られたもの。片手落ちなのです。

頭の働きが良くなり、考える力を持つためには。いかに多くのシナプスをつなげるか。それには、いかに五感すべてをフル活用できるかにかかっています。それが出来るのが「遊び」なんです。

遊びを忘れた脳みそは、筋トレしない筋肉と同じ。衰えてゆくだけです。

大人になるまえの子供のうちに、いかに五感を総動員させて遊ぶか。そして経験や体験をどれだけ増やして蓄積できるか。「本当に頭の良い子」を育てたかったら子供のうちに、イメージ豊かな子供のうちに、たくさん外で遊ばせること。さらにその体験を子供と親が楽しく語りって増幅すること。そうしてイメージの貯金をすること。それが一番の早道なのです。

それこそが子供のころからできる本当の「英才教育」なのです。

もともと、学校は「教科・単元・領域ごと」の枠で仕切られた勉強が当たり前でした。この教科ではこういう内容について、この学年ではここまで、その次にはここまで教えなさい、ということがはっきりと決まっていました。つまり「学習指導要領」という「教えるべき内容の基準」をいうものが全国統一されてしっかりあって、それを身につけさせるのが学校の勉強でした。

まず、これを崩すことが大変でした。

数学や国語という教科を教えない。だから、内容の基準もはっきり決め出すことが出来ない。その時その時に必要な場面での学びがあるのがいいのであって、こちらから教材を用意して「教える」ことはNG。

けれども実は、学びの要素を生徒たちの意識や流れに上手に組み込むのかは教える側の創意工夫にゆだねられる。つまり、今までのように指導要領一冊持ってその「段階」に従った内容を教えるだけではダメで、生徒の見取りの力、学ぶ内容を組み込み課題に沿ってヒントを与える力、教科という枠を越えた膨大な知識、様々な技術……先生たちにもものすごい学びと実力が要求されます。

さらに「教える」という行為が一見すると無いわけで、「何もしていない」ように見えてしまう。「教える」プロであった先生たちが混乱するのは……それもずっとそれでやって来た先生方が混乱するのも無理からぬことでしょう。

さらに、先生方はそうして自分の専門教科の教え方を身につけているわけで、自らがこの「教科学習」での優秀な成績を収めて大学までの学びを終えた人たち。教科を越えた学びをイメージするのは、確かにものすごく難しかったことなのです。

私自身は「生活単元学習」について新卒で学ぶことが出来、それ以来自分の専門教科である音楽や英語の授業でもこの考えを取り入れて、数学や国語、社会などの他教科の要素を取り入れた学びを展開していました。けれど、養護学校から小学校に転任して最初の研究授業では、そういう私の授業は「教科らしからぬ」「養護学校的な指導」という「ご指導」をいただくことになり、やはり教科的な指導になれた先生方には理解してはもらえなかった経験があります。

「総合学習」の考え方が学校に入り始めた頃。これと同じような混乱が学校の中に起こっていました。それも降ってわいたように「これから総合学習というものが入ってきます。先生たち、それで教えてください」という「おふれ」が来た後で、先生たちはカリキュラムの組み直しとそれを身につけるための研修や研究会で必死。

けれど、自らがそういう学びをしてこなかった先生たちが、今までの教え方で毎日の授業を進めながら、研修・研究会でじっくり新しい学びである「総合学習」について身につけるだけの余裕が許されるものでしょうか。正直いって、かなりの混乱状態のままでこの「ゆとり教育」は見切り発車……という感が強かったように思います。

今現在、この総合学習の学びのあり方をしっかり「イメージ」することができ、その本当のあり方や意義を理解できた先生方は、第3章の実例のようにすばらしい成果を上げつつあります。しかし、どうあっても教科制という枠組みの呪縛から逃れることの出来ない大多数の「学校のあり方」から総合学習は見放され、削減の一途にあります。

イメージしてみてください。
このまま、教科制というベルトコンベヤー式の学びを続け、「頭に詰め込むだけ」の学びを続けること。
しっかりと総合学習本来の意義をしっかり見直し、見据えて教育の体質改善に真剣に取り組むこと。

どちらの方がこれからの社会や未来を担う子供たちにとって本当に必要な学びのあり方なのでしょう?

子供だけのミーティング

Photo : Midori Komamura

もともと子供というのは「イメージする力」(夢を描く力)に長けています。この世の経験年数が少ない子供たちはそれがゆえに自由にイメージを拡げることが出来ますし、それをもとに生きています。

そういう「イメージの固まり」である子供たちに知識や経験というイメージ化を助ける材料を与え、その方法の学びをする場所……それが本来の「学校」の役割なのです。イメージを妨げる「点数重視、テスト重視、学歴重視」の今の学校制度の中ではそれがいつの間にか忘れ去られてしまっているようですが。

(だから、イメージが出来る子供たちほど苦しくなる。不登校やいじめの大きな要因の一つは、イメージできる子供をきちんと支えることが出来ない今の学校制度にあります。)

その最たる出来事が「ゆとり教育の失敗」なのです。

「ゆとりはダメだ」と口にする人々に私は言いたいのです。
「ゆとり教育を失敗に導いたのは、あなたたちなのですよ。」………と。

そもそも、日本を救うはずだったあれだけの教育へのてこ入れに対して「ゆとり」というネーミングで「間違ったイメージ」を植え付けた時点ですでに、この教育再生への大切な手立ては「失敗」したと言っても過言ではないのです。

「ゆとり教育」と一般的に呼ばれている教育の方向性は、先にも述べたように本来その柱が「総合学習」という学びのあり方を柱に組み立てられていました。

総合学習というのは、教科や単元という「枠」にとらわれず、その時その時に起こったことや発生した事件、ぶつかった問題点などに「どう当たっていくのか」を考えていく学びです。

だからその上で必要な計算の力をつけたり、身のまわりに起きる事象の科学的・歴史的説明について追求したり、その表現をするために文や音や絵などで伝える工夫をしたり……。つまり、学校という社会縮図の中で「生きる」ために必要な学びをその時々の必要に応じて先生と生徒が一緒に膝をつき合わせ、一緒に悩んだり考えたりしながら身につけていく、という学びなのです。

教科指導は「まず学習内容ありき」。この単元や指導項目を「どう教えるか」が問題になります。

一方の総合学習は、あるテーマに向かって「どう進むのか」、「どう組み立てるのか」、「どう考えるか」が問題になるので、学ぶ内容がついてくる形になります。学ぶ内容をそれぞれが探り出し、自分から求める形になるのが教科学習との大きな違いです。

ですから、実は、時間的な「ゆとり」などは全く許されないのが本来の総合学習のあり方です。生徒も先生も、たとえば第3章の事例で取り上げたように「映画作り」というテーマや「学校美術館」というテーマ、「祭の成功」というテーマを共通して持った上で、それをやり遂げるためにあらゆることを自分たちで組み立て、考えて取り組んでいくわけです。

取り組む生徒たちにとっては、何が起こるかわかりません。映画作りや美術館作りに必要な資金も、技術も、何が必要なのかもわからない。取り組む順番もわからない。

そういうわからない中、手探りで進む中で様々な「困難」が立ちはだかる。どうしたらいいのだろう?どう乗り越えよう?………必死です。テーマを実現するためには、立ち止まってはいられないのですから。さらに、そういう生徒たちの姿を見取りあらゆる場面や状況を想定しながら下調べや準備をし、生徒と共に取り組む先生はなおのこと、本当に息をつく暇もありません。麻和教諭も、中平教諭も、自分自身の時間を削っても「テーマの実現」を生徒と目指して奮闘しているのです。

(2につづく)

総合学習

Photo : Midori Komamura

「観光」という言葉は、「国の光を見る」という意味から生まれた言葉。

その土地に行った人が、その土地の人・地脈に触れて感じ、学ぶのが観光の本来の意味です。けれど「観光」を目指すことによっておもてなしをする土地の人々にとっても、それは大きな宝になる。

大久保さんはほっとステイのみならず、菅平に合宿に来る人々に対しても、またそこに生きる人々に対しても、その「光」を放とうと様々な試みをしています。

たとえば「爆音バス」で大久保さんは自分のホテルに泊まっている選手たちを激励しますが、そのバスは同時に菅平の道を歩く人々にむけての「おもてなし」の心の表れでもあります。

そんな風にもてなした人びとを、大久保さんはまるで家族のように大切にしています。

取材で訪れたときにちょうど合宿していた関西学院のラガーマンたちを「この子たちは強いよ!」と自分の子どものように嬉しそうに紹介してくれました。先日も花園で行われたラグビーの全国大会で彼らが上位進出を果たすと、自ら関西まで応援に出向きました。

会場で選手を激励するために何と「法螺貝」を吹いて審判に注意を受けてしまったそうですが、この法螺貝を聞いた別の方からは「興奮度が上がった」との好意的な声も。

大久保さんは、決して自分や自分のホテルだけのことを思って行動しているわけでも、菅平のことだけを思って行動しているわけでもありません。彼が出会った人々にかたむける想い、おもてなしの心は、ほっとステイでも、菅平を訪れるラガーマンたちにも、血のつながりはなくても心のつながる「第二のふるさと」を実現しているのです。

この「第二のふるさと」……帰ったら温かく迎えてくれる人がいる、というイメージは、菅平という土地を大久保さんと触れ合った人たちにとっては特別で忘れられない場所として色鮮やかに心に残ることでしょう。

そうして、大久保さんがつなげた人の輪は、高齢化や過疎化で担い手の減り始めている農村の皆さんにも、また観光という面で様々な見直しや試みを求められる菅平にも、この先どんどん力強く温かいイメージをもたらしてくれるに違いありません。

大久保さんの「家族」が増えるほどに。
菅平高原は人々の心の「第二のふるさと」として、生まれ変わって行くに違いありません。

詳細:N-gene記事
菅平の光を取り戻せ〜プリンスの挑戦
「第二の故郷」は土の匂い〜ほっとステイin真田(1)
「第二の故郷」は土の匂い〜ほっとステイin真田(2)

ほっとステイ

Photo : Midori Komamura

小布施には高井鴻山という文人がいました。

造り酒屋の豪商である高井家は、八代目の時の天明の飢饉時に蔵を開放して人民の救済をし、そのため名字帯刀を許されたとされています。

その十一代目である鴻山は、京都に遊学して書・画・朱子学などを学び、幕末の様々な文化人との交流も深めています。小布施においては天保の大飢饉に際して八代目同様倉を開放して人民の救済を行い、塾を開いて地域の人民の教育にも力を注ぎました。

また、葛飾北斎を招き、彼をパトロンとして支援したのです。このつながりから北斎が何度も小布施を訪れ、「八方睨み」と言われる鳳凰画を完成させています。

鴻山はしかし、単なる資金援助をしただけではありませんでした。北斎の芸術・感性を大切にし、自らもその弟子として学んだのです。北斎の鳳凰図へのアドバイス、相談にも乗ったとも言われています。

鴻山のように、単に資金面での支援・援助のみでなく、文化や感性のような「心」の部分に至るまで、自らのもっているものを人々と共有し、それを支える姿勢やその仕組み。それが「旦那文化」です。

これはつまり、財産〜金銭〜だけの共有ではなく、思想や感覚の共有にまで及ぶものです。
さらに……それを時の政府という「公的なもの」がやるのではなく、「民が主体的に」行っているのです。ソ連や中国の「共産」がうまくいかなかったのは、民ではなく官主導で行ったという要素があるのに対し、小布施がなぜ、その豊かさを今まで絶えることなく受け継いでいるのかといえば、官主導ではなく民による自発的な「共産」が行われたから……なのだと思うのです。

高井鴻山の末裔である市村氏をはじめ、小布施に生き、小布施を愛する人々が主導して進めてきた小布施の町並み作りは「小布施方式」と言われて全国から注目されていますが、その根本に流れているものは「外はみんなのもの、内は自分たちのもの」という町民の意識。

すなわち「共有」という感覚で町が組み立てられているせい。さらに、外から持ち込まれる文化や物産、さらには人材までも分け隔て無く受け入れ、それもまた皆の財産として共有し、町の財産として分配されているのです。

小布施の町は、人が作っているのです。そこに住む人々が、それぞれの立場でそれぞれのもっているものを町のために共有し、分配しあうのです。だから、小布施の町はみんなが幸せで、みんなが豊かに生き生きしているのだろうと思うのです。

こう考えると……今、マルクスの思想が改めて見直されつつあることと、小布施の町に観光客の客足が途絶えないこととは何か通じるものがあるような気がしてきませんか?

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*なお、小布施町の市としての名残を感じることが出来る「安市」が今週末(14,15日)に開かれます。このコラム(1)(2)で使用した写真は安市のものです。お近くの方は、是非小布施に賑わいを体感しに行ってみて下さい。

小布施安市

Photo : Midori Komamura

本を探したいときには、「連想検索システム“想”」。自分の知りたいことについての言葉一つでそれに関連する本がぱっと表示される。今までのような本のタイトルや著者からの検索では見つからない、意外な本が引っかかる可能性、そこからどんどん検索が拡がっていく可能性。検索一つとっても、かなり楽しい作業が可能になります。

その他、国立情報学研究所との共働によるデジタルアーカイブの研究。小布施の直接は手に取れない古い貴重な文書が誰でも読めるようにデジタルアーカイブ化が進められています。これによって江戸時代に日本全国の文化人と交流のあった高井鴻山が集めた鴻山文庫も、立派な活用できる資料としてよみがえりつつあるのです。

また、iPod,iPhone用のアプリ「小布施ちずぶらり」、このアプリがあると小布施町の現在の地図だけではなく、「いにしえの小布施」(江戸時代の地図)を持ちながら小布施の町を散策することも出来るのです。

花井氏・まちとしょテラソを中心にして生まれてきたそれらの動きは、小布施という町の持つ立派な歴史と、町に活きた人々が積み重ねてきたすばらしい文化を今に受け継ぎ、生かすもの。単に「懐古主義」とかメランコリックな思いのものではなく、きちんと「今」に歴史の流れを受け継ぎ、つなげるもの。そしてそれが、小布施町の未来とその可能性へとつながっていくのです。

歴史と、その積み重ねが生み出す力強い未来への展望「イメージ」が、小布施の町を作っています。そして、その歴史が育んできた「人を愛し、人を育てる」気風が、花井氏をはじめとする多くの人々を小布施という小さな町に惹きつけ、引き寄せる。

小布施を愛する人々が自らの生きる場所を「人の住む街」として作り上げ、その心が感じられる町並みを訪れる人々をまた魅惑するのです。

そのため、北信濃のほんの小さな町に過ぎない小布施町は、平日でも観光客の姿が絶えることはありません。そしてそんな「人の生きる、人の住む街」小布施では、まちとしょテラソの取り組みだけではなく、あちこちでいろいろな試みが日々積み重ねられていくのです。(記事参照)

小布施町の躍動。それはそこに住む人々の力強い未来にむかって進む足音でもあり、心の高鳴りでもあるように思います。歴史に支えられ、それを今に繋ぐことが出来ると、こんなにも未来への明るいイメージを描き出す事が出来るのです。

一度小布施町を訪れてみてください。一歩その町並みに降り立ったら、それは実感として……力強いイメージとして、あなたの中に湧き上がってくるはずだと思います。

詳細:
☆オーディオバイオグラフィー【羅針盤】
第3巻 市村次夫
☆N-gene小布施関連記事
商業の町、小布施に受け継がれるいにしえの心〜「安市」
「ひとの住む街」を作るのは、ひと。(1)(2) 〜境内アート小布施×苗市〜
原点に立ってめざす「先進」の姿〜小布施、まちとしょテラソ〜
寄り道、みちくさ、まわり道 〜たどり着いた“小布施の花井”〜
ちりも積もれば宝になる〜まちとしょテラソ1周年

小布施

Photo : Midori Komamura

村の一員としての仕事をやり遂げる実感が、子供たちの得る収穫です。

子供たちの世界の中で年上のもは誇りを持ってその「祭の心」を守り、それを見た年下の子達は守るべきものをやり遂げるために必要な厳しさややり遂げたことの満足を自ら感じることで「社会の一員」としての生きるあり方のモデルをイメージとして積み上げていくのです。

それはこの地区の子供たちだけではありませんでした。

南信州遠山郷で冬の寒いさなかに行われる「霜月祭」。八百万の神が集まってくるとされるこの祭で奉納される神楽の面をつけるためにはその土地に根ざしている人々が練習を積んでようやく許されることですが、保存会の指導を仰いでその面をつけての舞いの習得に学校を挙げて取り組んでいたのが今はもう廃校となってしまった上村中学校でした。

神に捧げる舞いは神聖なもの。面をつけることの「意味」を子供のころからちゃんと受けとめてきた生徒たちは、面を生かすために真剣に舞い踊り、「神さまなんてばかばかしい」などという子は1人もいません。

そうして真剣に舞う姿の中に「かっこよさ」を感じることができる生徒たちがこの神楽を受け継ぎ、同時に神をあがめ、感謝を捧げる精神も受け継ぎ、その土地の人々が流してきた汗や誇りをも受け継いで、故郷上村を愛する子供たちはやがて大学、就職などで土地を離れてもこの祭には帰ってくるのです。

寒空の中で、白い息を吐きながら大きななべに豚汁を作っておにぎりと共に訪れる人にふるまうのは高校生。大人たちに混ざって、背筋を伸ばして横笛を吹く男の子。赤い火を噴く大きな竈を取り囲んで祈りを捧げるその周りで、笛太鼓に合わせて飛び跳ねるはっぴを着た若い衆。

子供たちはその中でちゃんと「地区の一員」として位置づけられ、その土地の命をしっかり感じて育ちます。土地の命を受けとめて成長するのです。「祭」というひとつの「イメージ」が、社会の一員としての自覚と責任と、それを担うことのできる誇りと喜びを、子供たちの中にちゃんと形作っているのです。

過疎化、高齢化、そういう現実のなかでこれらの村々から育った子供たちがどんな花を咲かせていくのか。

それはこれからのことにはなりますが、少なくとも今、ここで育まれているイメージは、子供たちの中にけっしてくらい影を落とすものではないことは、その表情から明らかに見て取れたのです。

関連本文:フォーラム南信州「祭の流儀」(1),(2)

詳細:
フォーラム・南信州「祭の流儀」第1回 
フォーラム・南信州「祭の流儀」第2回「ことの神送りを追いかける」
N−gene記事 (いずれも文:宮内俊宏・写真:駒村みどり)
  「「事の神送り」を追いかける」1〜4
  「遠山郷・上村中学校のこと

南信濃の子ども

Photo : Midori Komamura

(3) 「イメージ」が支える子供たちは強い 南信濃で出会った子供たち

「ダメだダメだ。今笑ったやつがいた。坂の下からやり直しだ!」

大きな太鼓を背負った(たぶんかなり重たいだろう)リーダーの厳しい声が飛ぶ。一瞬「えー」と言いたそうな表情をすぐに引き締めて、小さい子達は急坂の遥か下に戻っていく。

「ことの神送り」という祭があります。事の神、というのは風邪や厄という「寄りついて欲しくない」神の存在。毎年2月に南信州の飯田上久堅地方で行われているこの祭は、そういう「厄の神」を各家から集めて村の外れの深いヤブに捨てに行く祭。

それを取り仕切るのはすべて子供たち。大人は見守るだけで、寒い冬の空気に顔も手も真っ赤になった子供たちが広い村中をまわって訪れるとぼた餅をふるまってねぎらったり、温かい豚汁で迎えたりする以外は一切手出しをしないのです。

小学3年から中学2年までの地区の子供たちが念仏を唱えて広い村中の家々をすべて訪れます。身体の大きいリーダーの中学生たちは、小さい子供たちを労りつつ、けれど祭のルールや約束事を破ることは許さないからどんなに坂がきつくても、やり直しはやり直し、できるまで何回も繰り返すのです。

息が切れてもそうしてルールを身につけて、小さい子供たちは一緒になって地区の一員として、子供の一員としての「役割」を果たします。家々からはそういう子供たちに「お礼」が手渡されます。集計して祭りの後に均等に配分する、その会計の係も子供たちの役目です。

唱えて歩く念仏は、日が落ちて「夜」になってからは昼間と言葉が変わります。時計はないから空を見上げて「一番星」を探します。見落とさないようにしっかりみんなで探し、一番星を見つけたら夜の念仏にきり変えます。

夜遅くまで、身を切りのどの奥を突き刺す空気の中、各家からの「厄」を集めた子供たちは、翌朝今度は日の昇る前にその「厄の神」を乗せた大きな笹を村はずれに捨てに行くのです。そこでも何回もやり直し。途中での「遊びの時間」には、鬼ごっこのような遊びの中でチームに分かれてほっぺたを真っ赤にしながら子供たちは道路の真ん中で飛び回ります。

そうしてようやくたどり着いた村はずれのうっそうと茂るヤブの奥に、この先の一年の安泰を祈りながら厄の神を捨て、後ろを振り返らずに走って帰る子供たち。その表情に浮かぶのは「満足感」。何回やり直しをしても、それは自分たちが守るべきルールであって、押しつけられたものではないからリーダーがやり直しと言ったらきっちりやり直し、そうしてそういう「大変さ」を感じるから最後まで「やり遂げた」充実感が喜びで顔を輝かすのです。

詳細:
フォーラム・南信州「祭の流儀」第2回「ことの神送りを追いかける」
N−gene記事 (いずれも文:宮内俊宏・写真:駒村みどり)
「事の神送り」を追いかける」1〜4

ことの神送り

Photo : Midori Komamura

二つのプロジェクトから見えたもの、掴んだ可能性の未来について宮内氏と語るうちに、ひとつのぼんやりとしたイメージが浮かび上がってきました。

今の社会・世の中は、まるで嵐の海のようなもの。先は見えないし、それがいつおさまるともわからない。その荒れた海で避難する場所も見えずもみくちゃで息もつけない。時に嵐は、がっしりした大きな船でもたちまち飲み込んでしまう。ニュースを賑わせる大企業の突然の破産や倒産、経営危機。みんなが必死に嵐と戦っていて、どうしたらいいのかわからなくて。みんなが嵐を乗り越えるために必死でいろいろな手段を講じているけれど……なすすべもなく抗う力も失いつつある。

それを乗り越えるためにはどうしたらいいのだろう。

自分たちも、まだそれが見えない。実際にいろいろ無我夢中で取り組んではいるけれど、どうしたらそれがちゃんと実を結ぶのか、何を目指してどんなふうにしたらいいのかわからない。……その「イメージ」がない……。「乗り越えるイメージ」が欲しい……。

今の時代にありながら、ちゃんと苦難を乗り越えてしっかり立っている人々がいる。そこにはきっと、乗り越えるためのヒントになる「何か」があるに違いない。そういう人たちに会って話を聞いて、その「何か」を集めてみたらどうだろう?

今この時に必要なのは、「乗り越えるためのイメージ」……そしてそれは、嵐にも負けずにしっかり立つことができる人々の持っている「何か」。それこそが訳のわからない苦しい状態を抜け出し、この先進む方角を示してくれるための「羅針盤」になるのではないだろうか。

いろんな人に会って、話を聞こう。そこから何かが見つかるかもしれない。その人々の言葉を集めて、自分たちだけでなく、おなじようにもみくちゃになっている人々にも伝えられるような“何かの形”にしてみたらどうだろう?

こうして、二つのプロジェクトから見えた可能性をより確かなイメージへつなげる手立ての一つとして、オーディオバイオグラフィー【羅針盤】の構想が生まれたのです。

かりがわたる

Photo : Midori Komamura

2-4そして【羅針盤】へ 〜社会という荒波を進むための指針〜

こうして、「日本の社会は大丈夫」というイメージを得、可能性を見つめるエネルギーを得ることが出来たのですが、一方で「現実」「現状」が持つ大きな課題もはっきりと目の前に山積みになりました。

日本は大丈夫、という要素も可能性もありますが、しかし逆をいうと「大丈夫ではない現実」が立ちはだかるからその可能性を探らねばならないわけです。

たとえば、一番切実なのはお金の問題。何をやるのにもお金がかかります。実際、N-ex Talking Overを半年で休止しなくてはならなかったのもそれが大きな理由でした。

同じく、若い世代がなぜ情熱を持ちながらそれを実際に生かすことができないか、という理由にも重なってきます。まだ財力の余裕がない若い世代は、活動にお金をかけることが出来ないし、自分の生活を維持するためには収入を得ることも必要で、収入を得るための仕事の時間が本当に目指すものにかける時間を圧迫する。これも現実のことです。

それから、年代や立場の差。

世代や立場を超えて交流できる場が消滅し、「異なった環境から生まれた意見」が討論される場がないことのほか、少子化・核家族化による年代バランスの崩れ、発展のために急激に進んだ競争社会、失敗が許されにくくなった環境、固定化・形骸化された決まりや伝統、もしくは増え続ける規則による思考の停止状態……。様々な要因が絡み合って、年配と若者、土地のものと外からの者、収入の多少、などの立場の二分化・二極化を創り出し、それによって意見もまた良いか悪いか、あっち派かこっち派か、という歩み寄りのない「対立」の構造を創り出していました。

結果、力のない者、権威のない者、実績のない者、資金のない者、といった「無い者」の挑戦は取り上げられなかったり、孤立したり、という状態がおこるのです。

そこで「可能性」を掘り起こすだけではなく、それをつなげてわかりやすいイメージにすることが必要でした。

実際に、小さい動きですが「活動」して頑張っている人はたくさんいました。けれど、それを取り上げてつなげる機能を持つ機関がないのです。だから、頑張っている人たちは孤独でした。「自分だけ頑張っていてもなぁ」というむなしさや、「こう考えるのは自分だけなんだろうか」という孤独感を持った人。N-ex Talking Overや文化庁の事業で出会った人々の中に見え隠れするそういう想い。

せっかくの可能性を未来につなげるためには、そういう想いを何とかするべきだろう、どうしたらいいのだろうか?
「この先」を考えたときに、何が出来るのだろう?

荒れた海を見つめるカモメたち

Photo : Midori Komamura

かつて人は、様々な感謝や、祈りを捧げる一つの形として「祭」を行っていました。それは豊かな恵みや労働に、人々が生かされていることに、自然との共存を願って、厄や難を避けるために……など理由や形には様々ありますが、「より良く生きる」「豊かに生きる」ことをイメージしたときに生まれる祈りや感謝という想いを形にしたものが舞いや音楽。そしてそれを奉納するのが祭です。

南信州には、山あいとそこに住む人々に守られて、いまだにこの祭がしっかりと中身を伴って多数残っているのです。伝統だから、決まりだから、という形を維持するためではなく、人々の「より良い生き方」への想いと情熱によって今の時代に力強く受け継がれてきているものがたくさんあるのです。

この祭の中に、今の時代をよみがえらせるためのヒントがないだろうか。形だけのものに心を取り戻すためのヒントがないだろうか……。そういうテーマで取り組んだのがこのフォーラム南信州「祭の流儀」でした。

2回のフォーラムと、まとめの会。それから各地の祭の現地調査とそこで出会った人々。一年を通じて頻繁に飯田に通い、南信州の空気や土地柄を直に肌に感じながらこの事業を進めていく中で見えてきたもの。

それは、その土地土地にはそれぞれ持っている気風=地脈というものがあり、その上に成り立った生活や文化は人が生きる上で本当に必要な「命のエキス」のようなものだ、ということ。それを忘れたり捨て去ったりした土地とその人々がたどるのは衰退。けれどその地脈をきちんと感じとり、それを生かした生活の上に成り立っているところは細くても小さくてもちゃんと命のリレーが出来るのだ、ということ。

過疎化。高齢化。こういった現代社会の波は確実にこの独立状態の南信州にも押し寄せています。死んだ畑や田んぼもたくさんありますし、シャッターがおりた店が目立つのも確かです。でも、地脈を感じている土地の人々の表情は明るいのです。前向きなのです。形にはめられず、踊らされず、心を守ろうとする強さと情熱が消えていないからです。

東京の雑踏の中で、ものすごくたくさんの人の波の中で立っているときには感じられない人や大地の放つ「気」というものが、「祭」という一つのイメージの形から強烈に伝わってきたのです。

これなんだ。これが必要なんだ。「今」に欠けているもの、「今」が見失ってしまったものはこれなんだ。

それを色濃く残している南信州の土地と、そこの人々からもまた、「まだいける、まだ大丈夫」という力をもらい、一年間の事業からたくさんの「前へ進むためのイメージ」の材料を受け取ったのでした。

*フォーラム南信州「祭の流儀」 (H20年度文化庁事業)の概要とまとめはこちらでご覧下さい。

霜月祭

Photo : Midori Komamura

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PROFILE

駒村みどり
【スマイルコーディネーター】

音楽活動(指導・演奏)、カウンセリングや学習指導、うつ病や不登校についての理解を深める活動、長野県の地域おこし・文化・アート活動の取材などを軸に、人の心を大切にし人と人とを繋ぎ拡げる活動を展開中。

WebマガジンNgene特派員
(長野県の文化、教育、地域活性化などに関わる活動・人の取材)
【羅針盤】プロジェクトリーダー。

Twitter:komacafe 
HP:コマちゃんのティールーム
メルマガ:【うつのくれた贈り物】
facebook:Midori Komamura

詳細は【PRPFILE】駒村みどりに記載。

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