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深い深い森の奥、空をみあげても太陽が見えないほど鬱蒼と生い茂った木々に囲まれた薄暗い場所に、1本だけ珍しい桜が咲いていた。 桜には違いはないが、この地に昔からある桜ほど美しく咲き誇るわけではなく、花の数も少なく、香りは驚くほどいいのだが、やはり見劣りがした。 幹も細く枝ぶりも悪く、貧弱な木という言葉が当てはまった。 よくよく見ると若い木ではなく、どうやら二百年はここにあったらしい。 病気というわけでもないから、きっとこういう種なのだろう。 見た目は残念だが、この桜の真価は花が散った後だった。 他の桜とは違い、この桜は赤く大きな果実を実らせる。 口に含めば甘みはなく、代わりに強い酸味があり、御世辞にも美味しいとは言えないが、それでも食べ応えのある赤い実が鈴なりに実るのだ。 その実をいくつか摘みとって皆に見せたところ、これは実桜あるいは桜桃と呼ばれる桜で、この日本国にも数は多くないが、このような果肉をつける種類がある事を教えてもらった。だが、これだけ大きな実をつけるのは日本国の品種ではなく、渡り鳥が長い年月をかけて運んできた異国の桜桃ではないかということだった。 味はともかく、これだけ食べごたえのある実ならば、渡り鳥たちは喜んで口にし、種を遠くへ遠くへと運んでいくだろう。翁でさえ知らなかったのだから、とても珍しい桜桃なのだという事だけは解った。 数年前にたまたま見つけたこの場所は、自分だけしか知らない。 俺だけの秘密の場所。 そのはずだった。 「君は、何をしているんだ?」 突然かけられた声に驚いて、伸ばしていた手を止めた。 声のした場所を見下ろしてみると、そこには見覚えのない子供。 烏の濡れ羽色のようなしっとりと美しい黒髪に、それとは対象的な白い肌。こちらを見上げている少しツリ目気味な瞳は、美しい帝王紫。 赤と黒の外套と、白い見たこともないタイプの着物を着た、作り物めいた容姿の子供は、木の上の人物がなかなか返事をしないことに苛立ったように眉を寄せ「何をしているか聞いているんだ」と、再び声を上げた。 また声を掛けられたことで我に返り、呆けていた事に思わず赤面してしまう。 「なにって見てわからないのかよ?」 薄暗いこの場所で、顔が赤い事は流石に解らないだろう。 そう思いながら再び手を伸ばし、赤い果実をぷつりと取る。 赤く熟した果実はみずみずしく、とても美味しそうに見えるが、見た目に反してとても酸っぱい。それでも、果実をパクリと口にした。強い酸味が口の中に広がる。 「おい!」 黒髪の少年はまだそこにいて、何やら怒っているようだった。 まったく、怒りたいのはこっちだ。ここは俺だけの秘密の場所なのにと、声は無視して、手で持てるだけの果実を摘みとった後、その枝だから飛び降りた。 「なっ!危ない!!」 子供は、俺が高い枝から飛び降りたことに驚きの声をあげたが、このぐらいの高さなど何でもないと、危なげなく地面に降り立った。高さはそれなりにあったため、両足がジンとしびれたが、それだけだった。あの高さから平然と飛び降りたことがよほど衝撃的だったのか、黒髪の少年は目を見開いて、ポカンと口を開けてそこに立っていた。 近くで見ても、やっぱり女みたいに整った容姿をしている。 男だと理解る格好でなければ間違えていたところだ。 「お前どこから・・・おい?」 声をかけても、ポカンとしたまま固まっていて、手を顔の前で振ってみるのだが、反応が無い。そこまで驚く事だったか?と思いながら、帝王紫の瞳を覗きこむ。どこか焦点のあっていない瞳だったが、それでも今まで見たどの紫よりも綺麗だった。すると数度その紫は瞼の裏に隠れたかと思うと、今までとは打って変わって強い輝きを宿し、こちらを睨みつけてきた。 「君は馬鹿か!!あんな高い所から飛び降りて、怪我でもしたらどうするんだ!!」 正気に戻った途端に上げられた元気な声に、ああ、大丈夫みたいだと思わず胸をなでおろす。初めて会った人間で、秘密の場所に勝手にやって来て怒鳴るような奴、普段であれば力づくですぐこの場から追い出すのだが、何故かそんな気は一切起きず、反対にその人間の事がとても気になった。 「あの位で怪我なんてするかよ。それよりお前も食べるか?」 沢山摘んで抱えていた桜桃を目の前に差し出すと、眉を寄せて果実を見つめた。 「食べるか、じゃない。その実は」 「これ、酸っぱいけど腹の足しにはなるぞ?」 そう言いながら、パクリとその身を口にした。 刺激の強い酸味が口に広がり、思わず両目をつぶってしまう。 「う~っ酸っぱい」 「・・・まったく君は。当たり前だろう、こんな場所で何の手入れもされていないんだから、甘い実なんて実らないよ」 「手入れ?手入れをしたら甘くなるのか?」 これだけ食べ応えのある実が甘く。 酸っぱくてもつい食べてしまうぐらい気に入っていたのだから、甘くなれば今以上に好きになるに違いない。 キラキラと深緑の瞳を輝かせ笑顔で尋ねられ、黒髪の少年は思わず言葉に詰まった。 「・・・す、すぐには無理だけど、甘くおいしい実になるよ」 そう言いながら、果実を実らせた桜桃を見上げた。 この人間は、この桜桃の事をよく知っているらしい。時間なんていくらかかっても構わないのだから、これは絶対に手入れの仕方を教えてもらわなければ。 「ほんとか!?どうやるんだ!?」 思わず詰め寄ると、黒髪の少年は驚いたようにまた目を見開いた。だけど今回は固まることなく、呆れたように息を吐いた。 「君が手を加える必要はないよ。これからは僕が手入れをする」 「は?お前が?」 人間の、しかも見るからに高価な身なりをした子供が? 「君には理解できないかもしれないが、僕は人間じゃない。この木に宿った精霊だ」 |