まだ見ぬ明日へ 第87話 |
雨が降っていた。 連日振り続く雨にウンザリしながら、朱雀は忌々しげに空を見上げた。 真っ黒い雨雲が空を覆い尽くし、ああ、これは雷が鳴るかもしれないな。と、思った。 ただの雨よりも、雷雲の方が面白い。 轟音と共に地に降り注ぐ雷光は嫌いではなかった。 だから雷鳴が轟始めた時、朱雀はこっそり屋敷を抜け出して秘密基地として使っていた古びた土蔵に向かうと、その一番上の窓から雷が次々と落ちて行く様を見ていた。 雨が降れば外で遊べない。 だが、今日は晴れていても遊べない日だった。 京都六家と呼ばれる名家の人間が雁首を揃え、この枢木本家に集まっている。 枢木家当主である朱雀の父、日本国首相枢木玄武を筆頭が家にいるというだけでも憂鬱だというのに、他にも朱雀が苦手とする各家の当主の集会。皆口うるさく、顰め面をして、顔を合わせれば説教ばかり。朝から続く説教地獄から解放され、大人たちは小難しい話のため、一室に集まっていた。 本来であれば時期枢木家当主である朱雀も、例え理解できなくてもその場にいて、耳を傾けて居なければいけないのだが、まだ10歳になったばかりの朱雀は1時間ほどで音を上げた。そして理由を作り席を立ち、そのまま逃げ出したのだ。 逃げられないようにと、がっちりと周りを囲まれていた従妹である神楽耶は、「朱雀だけズルイ!」と言いたげな恨めしそうな視線を投げかけてきたが、それに関しては気付かなかった事にした。 まだ幼い従妹が眠そうな顔になるたび、隣にいる大人に叱られていた姿を思い出して罪悪感を感じたが、神楽耶と共にいれば、”遊び”相手にされてしまう。 神楽耶の”遊び”は暴力的な面が多く、真冬に水風船を投げつけられたり、石を投げられたり、身動きの取れない状態にされた時など蜂の巣を近くに落とされたりもした。 悪戯というには度が過ぎているのだが、幼い神楽耶にはそれが理解できないらしく、子供特有の残酷さと無邪気さ、そして無知ゆえの好奇心に従い、朱雀に”遊び”を仕掛けていく。 類まれな運動神経を誇る朱雀だから大きな問題になっていないのだが、運動神経の鈍い相手ならどうなるか解らないような遊び。当然そんな遊びになど付き合いたくは無い朱雀としては、神楽耶と共にという選択肢はあり得ない。たとえ神楽耶の許婚とされている身だとしてもだ。将来必ず共にいなければいけないのなら、余計に今は離れていたい。 そう思っても悪くないはずだ。 神楽耶に対する言い訳を心の中でしながら、朱雀は空を見上げていた。 だが、ふと雷鳴に何か違う音が紛れている事に気がついた。 それは大きな音で、家の方から聞こえてくる。 何かあったのか? 家にいない事がばれて、誰かが探しているのか? 大きな雨音と雷鳴のせいで音の正体には気付けなかったのだが、朱雀は拙いと判断し急ぎ土蔵の階段を駆け降りた。 この雷鳴が轟く中傘をさすのは危険だと、全身ずぶ濡れになる覚悟で土砂降りの中を駆けだした。 あの日の事は決して忘れない。 あの日見た光景は、この胸に抱く最悪のトラウマ。 あの日土蔵にいたのは最善だったのか、最悪だったのか。 まだ夜も明けきらない時間に目を覚ましたスザクは、全身に鳥肌が立っている事に気がついた。歯の根が合わず、がちがちと嫌な音が口の中で響く。 寒さで体が震える。 それなのに、全身に滴るほどの汗をかいている。 懐かしくも忌まわしい過去。 最近見ることのなかった、悪夢。 その悪夢に起こされたスザクは、硬く目をつぶると膝を抱え、その顔を膝に埋めた。 暗い、暗い、暗い。 あの日から、この瞳は何も映さなくなった。 あの日から、私はこの暗闇に囚われ、生きていた。 あの日、私がよく知る人たちが殺害された。 私の祖父母も、私の世話にために来ていた大好きな乳母も、護衛として来ていた人も、全員血の海の中に倒れていた。 それが、この瞳が映した最後の光景だった。 ズルイ、ズルイ、ズルイ。 朱雀が一人何やら理由を着けてその席を離れたのが羨ましくて、私は心の中でずっと文句を言っていた。 未来の妻である私を置いて一人で行くなんて。 あとでちゃんと仕返しをしなければ。 そんな事を考えながら、早く話し合いが終わらないかとそわそわしていたら、乳母は私がトイレに行きたいのだと勘違いした。 それを好都合だと判断した私は乳母と共に席を立った。例え一時でも解放された喜びから私は自然と駆け足になり、お手洗いへと駆けこんだ。乳母は、私がよほど我慢していたんだろうと、くすくす笑いながらついてくる。 何度も遊びに来ていた朱雀の家。 私が何れ嫁ぐ家。 今の天皇は私の祖母だが、祖母に何かあれば母が天皇となる。その頃には私と朱雀の子が生まれているだろうから、母の次の代は私の娘。枢木家の跡継ぎも必要だから、私には娘だけではなく息子を産む義務があるのだという。 私は嫁いだ時に枢木の性となるが、私の娘は再び皇を名乗り皇の本家に行くという。 だが、万が一祖母と母に何かあれば、私は枢木の性を捨て皇に戻る。 日本の天皇は母系。 母親をたどっていけば、日本神話の最高神天照大神までたどり着くのだという。 だから、その繋がりを断ち切らないため、たとえ降嫁した後でも天皇となる可能性はあるのだ。 だから朱雀が夫となっても、私より立場が低い事に代わりは無い。 幼かった私はその事に優越感を感じていた。 天皇になりたいか?と問われれば、なりたいと答えただろう。 何せ日本の最高権力者だ。 憧れない方がおかしい。 だが、毎日忙しく動きまわる祖母を見ていた私は、あんなに大変な思いはしたくは無いとも思っていた。 天皇は現人神。 生きながらに神と呼ばれる唯一の存在。 そのため、あまり知られてはいないが、毎月必ず皇居の中では祭りが執り行われる。 豊穣を願い、平穏を願い、民の幸せを願う。 神の御子たる天皇は、神の巫女となり舞を踊り、歌を歌い、祈りを捧げる。 多い月では3日に1度。 だから祖母はいつも疲れたような顔をしていて、でもそれを国民には悟られないよう、人前で笑みを絶やす事は無かった。 それがどれだけ大変なことか、幼い私でもよく解ったのだ。 ならば、大好きな従兄妹である朱雀と楽しく暮らすほうがいい。 幸い、桐原、吉野、刑部の家には、私に釣り合う年齢の男子はいなかった。公方院は祖母の夫。宗像は母の夫。となれば、釣り合いのとれる年齢の男子がいる枢木以外選択肢は無かった。 吉野は、今年20歳になる息子を私の夫にと再三打診していたようだが、朱雀がいる以上その願いが通る事は無い。 天皇の家紋は紫蘭。 高貴な色を纏うその花は京都六家と呼ばれる者たちを示していた。 皇家を中心に6つの花弁。 桐原、刑部、公方院、 宗像、吉野、枢木。 皇を守るために古くから共にある家柄。 皇と婚姻を結べる選ばれた家柄。 皇のために存在する者たち。 その中心で育った私は、とても傲慢で愚かだった。 トイレから出た私は、乳母が扉の前に立っていない事に気付き、腹を立てた。 だが、今なら逃げ出せる。 私はそう判断すると、乳母が戻ってくる前にそこから駈け出した。 そして、手近な部屋へと入ると、押し入れに隠れた。 勝手に始めたかくれんぼだが、私の胸は興奮でどきどきと早鐘を討っていた。 皆私を心配し、探せばいい。 皇である私を心配すればいい。 私を置いて行った朱雀が悪い。 私を退屈にさせた会議が悪い。 私から目を離した乳母が悪い。 悪いのは皆なんだから、少しは反省すればいい。 そんな些細ないたずらだった。 だけど私は、あの眠くなる話から開放された事で気が緩んだのか。 あるいはその狭さと暗さが心地よかったのか。 私はほんの数分で深い眠りに落ちていた。 その些細な悪戯が私の命を救ったのだ。 いろいろ偽造しまくり。 実際の天皇家は父系で、家紋は十六八重表菊。菊の御紋です。 紫蘭ではありませんし、母系でもありません。 こんな偽造に騙される人はいないと思いますが一応・・・。 |