帽子屋の冒険2  第4話


帽子屋の家の中に転移したチェシャ猫は、驚きのあまり硬直した。
先ほどまで小麦粉が撒かれ、調理器具が床に散乱していた部屋が、今はそんなレベルではないほど荒れ果てていたのです。
散乱している物が先程よりも増えています。
先ほどまではなかった調理器具。
冷蔵庫に入っていたはずの食材や、完成していたお菓子。
帽子屋が大切にしていた本も散らばっています。
それだけではありません。
至る所に血痕が飛び散り、床には血まみれの大工と芋虫。
ボロボロになって倒れながらも罵り合っているので、元気はあるようでした。
そして、一人鼻を歌いながら、キッチンに立つセイウチ。

「あら、チェシャ猫さん戻ってたのね?お腹すいたでしょう?今食事を用意しているから、座って待ってて」

振り返ったセイウチの顔・・・いえ、全身に返り血が付いており、そんな姿のままで楽しげにキッチンに立っているのです。
ハッキリ言って恐怖しかありません。
更に言うなら、彼女がかき混ぜている鍋には、ドロドロとした粘り気のある青い液体が入っています。
臭いもかなり強烈で、チェシャ猫の顔は引きつりました。
鼻のいい白の騎士は思わず鼻を押さえ、顰め面をしていました。
せっかく残っていった犯人の痕跡は綺麗さっぱり消えていて、視覚だけではなく臭いから何かわからないかと期待していましたが、それさえ消えてしまいました。
みるみるチェシャ猫のこめかみに血管が浮き、白の騎士の腕を再びがしりと掴むと、乱暴に転移しました。
大工とセイウチは赤の王の部下です。
ハートのお城でのんびり報告を待っていた赤の王の元へ飛んだチェシャ猫は、怒りに任せ赤の王を怒鳴りつけ、帽子屋が戻るまでに元の状態に戻さなければコードで火口に転移させるぞと脅し、再び姿を消しました。
赤の王は若干顔をひきつらせながらもロイヤルスマイルを浮かべ、見張りをしているはずの赤の騎士にどんなお仕置きをしようか考えました。
なにせ赤の王に恐怖を与えたのです。
とても恐ろしいお仕置きになるでしょう。
チェシャ猫のコードは確かに怖いものではありますが、それ以上に最愛の帽子屋に嫌われる可能性が高いというこの状況は、赤の王にとって恐怖でしかありません。
しかし、赤の王は帽子屋の自宅に入るのは初めてでした。
何度訪ねても門前払いを食らうため、中の様子は知りません。
ですが、今、堂々と家の中に入る理由を手に入れたのです。
完璧に元の状態に戻し、かつ部屋の中にあるもの全てを記憶し、全く同じ部屋を赤の城の中に用意する。
その野望に燃える赤の王は、赤の女王と兵を連れ、帽子屋の家へ向かいました。


せっかくの手がかりが消えてしまい、チェシャ猫は途方に暮れながらも、帽子屋のお茶会会場へやって来ました。
勿論白の騎士も道連れ・・・一緒です。
既にお茶会は終わっているため、会場は帽子屋とバンダースナッチの手によって綺麗に片付けられている・・・はずでした。

「これは・・・!」

綺麗に磨き上げられたテーブルの上には、白い粉と、手や足の跡。
白の騎士はその匂いをかぎ、その跡の中にバンダースナッチの匂いがあることを突き止めました。

「どういうこと?何でここにまで」
「おそらく、バンダースナッチは何者かから逃げるため、ギアスでここに転移したんだ。だが、ここで本当に捕まってしまった」

そう、その粉の跡で、おそらくバンダースナッチは何者かに片腕を後手に抑えられ、その顔をテーブルに押さえつけられた事がわかったのです。
そして、そのバンダースナッチの周辺の残る複数の白い足あと。
でも、白の騎士が知っている臭いは1つもありません。

「ってかさ、僕犬じゃないんだよ!?帽子屋のならともかく、何でこんな男たちの臭い嗅がなきゃ駄目なんだよ!」

帽子屋の匂いが無かったことで、不安に駆られた白の騎士は苛立ちを募らせ、文句を言いました。

「男たち、か。何か特徴は無いのか?」

犬を連れてくるのは簡単ですが、此方が聞きたい情報を犬は話せません。
今のように性別を教えてくれることもありません。
それならばまだ話のできる白の騎士のほうが使えると考えているチェシャ猫は、白の騎士の意見など聞く気はありません。
実はチェシャ猫もかなり鼻が効くのですが、臭そうな男の臭いなど嗅ぐつもりは最初からありませんでした。ですからこの事は白の騎士には秘密なのです。

「特徴と言われても・・・う~ん、難しいな。匂いに関してはもう少し考えさせて欲しいかな。今気になるのは、この靴跡。なんか独特だよね」

チェシャ猫は、白の騎士の指さしている場所に視線を向けました。
確かに、バンダースナッチ以外の足あとは、皆同じ靴跡をしていました。
それもはっきりくっきりとした溝が残っているのです。
これは手がかりになるかもしれないと、チェシャ猫はコードで転移すると、白ウサギを連れて戻ってきました。

「記録」

白ウサギの得意技、記録によって、足あとは携帯に保存されました。
すべての記録を終えた白ウサギは、そのデータをチェシャ猫と白の騎士の携帯に転送した後、チェシャ猫と共にハートの城へ転移しました。
これでハートの女王たちにもこの足あとのデータが渡されることになります。
お茶会の会場へ再び戻ってきたチェシャ猫は、念入りに臭いを嗅いでいる白の騎士の傍へ近づきました。

「何か他にわかったことはあるのか?」
「・・・ここに、バンダースナッチが押さえつけられた時についた左手の跡があるだろ?大体左胸の当たりかな?・・・うん、やっぱり帽子屋の匂いが少しだけするんだ。でも、これはバンダースナッチの手についてたのかな・・・」
「今は帽子屋の匂いは諦めろ。犯人を特定し、助けに行くことを優先させるべきだろう」
「・・・わかってるよ。そうだな、バンダースナッチ以外の匂いで言うなら、全員から同じ匂いがしている。1つは多分暖炉の匂い。焼けた木と灰の匂いというべきかな。冬に使う暖炉がこんな匂いだからね。1つは・・・花の香りに近いかな。嗅いだことのない匂いだから断言できないけど。あと1つ、この足あとの1つに、なんかの欠片が乗ってるんだよね。多分、靴の溝に挟まってたものが落ちたんじゃないかな?この素材から足跡と同じ匂いがしている・・・と思う。でもこれは初めて嗅いだから、帽子屋の家にあったものではないよ」
「・・・ちょっと待て白の騎士。お前、帽子屋の家にある物の匂い、全部知っているような言い方じゃないか」
「え?知ってるよ?あの事件以降住んでるんだから当然でしょ?」

平然と答える白の騎士に、チェシャ猫は若干引きました。
それなりに長くあの家に居座っているチェシャ猫でさえ、流石に全部の匂いなど嗅いでいません。
全部と自信満々で言い切る白の騎士に、色々と嫌な想像をしてしまったチェシャ猫ですが、きっと鼻がいいから、嫌でも近くにある物の匂いがわかるのか、あるいは匂いフェチなんだと自分に言い聞かせてその場をやり過ごします。

「では、その欠片を調べさせたほうがいいな。赤の王に相談してくるから、それには触るなよ」
「わかった」

白の騎士は、なおも帽子屋の匂いを探して、念入りに辺りを調べ始めたため、チェシャ猫は赤の王が居るはずの帽子屋の家へ移動しました。
そこで、新たな変質者を見つけ・・・いえ、赤の王を見つけ、叱りつけた後欠片を調べるための手配をさせました。

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