帽子屋の冒険2  第5話


冷たい石の床の上に仰向けになり、手足を投げ出して一人の男が倒れていました。
その体は白い粉をかぶったかのか、白く薄汚れていて、その顔には殴られたような痣や切り傷があり、その目蓋は固く閉じられています。
その胸が上下しているため、生きている事は間違いありません。
しん、と静まり返ったその場所は薄暗く、この男以外誰も居ないようでした。
そこに、カツ、カツ、カツと2つの足音が聞こえ始め、だんだんその男のもとへ近づいてきました。
ですが、男はピクリとも反応しません。
やがてその足音はこの男の近くでピタリとその音を止めました。

「なんだ、まだ起きていないのか?」

男にしてはやや高めの声が、そう不満気に言いました。

「そのようですね。いかが致しましょう」

同じく、高めの男の声が、そう訪ねました。

「我らが欲しかったのは、この男ではなく、帽子屋よ。・・・まあ、この男も使えるかもしれないゆえ、殺さぬようにな」
「心得ております、高亥様」

そう答えながら男は暖炉に薪を足しました。
寒いこの場所を唯一温めている、この暖炉の火を絶やしてしまえば、誘拐たこの男が凍死するかもしれません。
定期的に見張りが来るときに、薪をくべる事になっていますが、少し心もとなくなっていたので、念のため足すことにしたのです。

「して、次の部隊の手配は?」
「明後日には」
「では帽子屋はその時に」
「はい、お任せください」

奇妙な笑い声を上げながら、二人の男はその場を離れて行きました。
カツ、カツ、カツと2つの足音は遠ざかり、やがて聞こえなくなりました。
その時です。
バンダースナッチの衣服がもぞもぞと動き出しました。
そこは上着の左胸部分。
もぞもぞと動くそれは、上着の端からぴょこりと顔をのぞかせました。

「・・・駄目だよ帽子屋。隠れてないと・・・見つかったら不味いよ」

未だ瞼を閉じたままのバンダースナッチは、小声でそう言いました。
その声は辛そうで、帽子屋を守るため抵抗した時に受けた暴行がどれだけ酷いものであったかが伺えます。
ここに放り込まれてからすでに2時間は経過していますが、未だにバンダースナッチは、殴られたり蹴られたりした暴行によるダメージで身動きが取れないのです。
それでも、咄嗟に胸ポケットに隠した帽子屋は守りぬきました。

「だが、隠れていてはお前の手当が」
「はは、優しいね帽子屋。でも、その大きさの君に僕の手当ては無理だよ。ここには道具もないしね。だから、隠れててよ。その方が安心できるから、僕も休める。それに、寒いだろここ。僕より小さな帽子屋は、こんな寒さには耐えられないよ」

帽子屋は、反論することが出来ませんでした。
バンダースナッチの言うことは正しいのです。
もしここに救急箱があっても、帽子屋に手当は出来ません。
そしてこの寒さ。
小さな帽子屋は、この寒さだけで命を落としかねないのです。
うなだれる帽子屋に、バンダースナッチは薄くまぶたを開き、痛む顔でぎこちなく笑いかけました。

「お願いだよ、帽子屋」

その言葉に、帽子屋は頷くしか出来ません。
さっとあたりを見回し、今いる場所をしっかりと頭にたたき込むと、帽子屋はバンダースナッチの胸ポケットの中に戻りました。
それに安心したバンダースナッチは、痛む体をどうにか動かし、仰向けになっていた体を横に向け、ネコのように体を丸めると、左胸を両手で押さえるような体制で眠りにつきました。
バンダースナッチの胸と手で暖められるような形となった帽子屋は、先ほどの会話と、今見たこの部屋を頭に思い浮かべ、考えます。
青白い石の壁と、高い位置にある太陽。窓には鉄格子がはめられ、その奥にチラチラと降り注ぐ雪が見えました。
今の時期、雪が降るのは氷の国か雪の国。あの太陽の高さと、チラリと見えた針葉樹からおそらくこの場所は、両国の国境付近と予想を立てます。
そして先程の高亥という名に覚えがありました。
雪の国の大宦官の名前だったはずです。
そこからさらにこの場所を特定できるかもしれませんが、残念ながらまだ情報が足りません。この部屋は牢屋で、先ほど男たちが立っていた位置には鉄格子が嵌められていました。そしてその奥には赤々と燃える暖炉。
高亥と共に来た者が盛大に薪を焚べてくれたので、この部屋もいくらか暖かくなるでしょう。その暖炉の周辺を頭のなかに浮かべると、暖炉の横に座り心地の悪そうな3人がけのソファーがあり、暖炉とソファーの間の壁に鍵らしきものがあったことに気が付きました。

(あの鍵を手に入れる)

バンダースナッチのギアスで逃げられないことは既に確認済みで、これだけ時間が 経っていれば、チェシャ猫が異変に気が付き、バンダースナッチを探しに来るはずなのですが、チェシャ猫は一向に現れません。
それはつまり、チェシャ猫に何かがあったか、あるいはバンダースナッチの居場所が解らないという事だと、帽子屋は判断しました。

(ならば、俺が動くまで。この小さな体を最大限利用し、バンダースナッチと共にここを抜けだす。そして、高亥。・・・バンダースナッチをこれだけ傷めつけたその報、必ず受けてもらうぞ)

帽子屋は息を潜め、監視の時間、人数、話し声など、今手に入るすべての情報を使い、作戦を練り続けました。

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