帽子屋の冒険2 第12話 |
突然反転する視界、宙に浮くような感覚と、天地が入れ替わったかような錯覚に襲われて、この感覚には覚えがあると、白の騎士は冷静に身構えました。 再び体に重力を感じた時、その体は床から10m以上離れた空中にあり、白の騎士はすっと目を細めると一瞬で辺りの情況をその瞳に収めました。 障害物も敵も何も無いなと瞬時に確認し、受け身を取りながら地面に降り立ちます。 先ほどまでいたのは雪が積もった針葉樹林の中でしたが、今は青白い壁に覆われた、何やら大きな建物の広間に居ました。 氷で出来たお城のようなその場所で、白の騎士は腰の剣をゆっくりと抜きました。 視界には人っ子一人居ませんが、間違いなく視線を感じるのです。それも、白の騎士を馬鹿にしたような、見下すような、明らかに悪意が篭っている視線なのです。 ついさっきまで白の騎士はバンダースナッチを探すため川辺にいました。 ですが今はこの場所にいます。 この移動の感覚は、ギアスとコードによる転移によるもの。白の騎士がよく知る能力者達であれば、自分を見知らぬ場所に意味なく転移させるはずはありません。 なにせ今は不思議の国のアイドルとも言える帽子屋の探索中なのですから。 となれば、白の騎士が知るかぎり、その力を扱えるのは一人だけでした。 かつてV.V.のハートを傷つけ、欠片を奪った悪の魔法使い。 そして帽子屋とバンダースナッチを誘拐した犯人です。 結論付けるのはまだ早い、冷静になれと自分に言い聞かせながら、白の騎士はゆっくりと息を吐きました。 「そこにいるのは誰だ。自分を白の騎士と知った上で挑発をしているのか?」 すっとその剣の切っ先を向け、白の騎士が睨みつけた場所はただの壁ですが、その場所から一番嫌な気配のするのです。そして、あのガラスの欠片についていた花の香もそこから漂ってきます。 「すごいな。よくここに僕がいるとわかったね」 楽しげな声が誰もいないはずのその場所から聞こえ、霧が晴れていくように人の姿が浮かび上がりました。 泣き声が、聞こえてきました。 それはとても大切で、とても愛しい、唯一の人の悲しげな声でした。 その人が悲しむなんて、そんなことは許されません。原因が自分なら尚更です。その笑顔は自分の命よりも大事なのだと、寝ている場合ではないと自分を叱咤し、重く閉ざされたその目蓋を震わせながら持ち上げました。 目の前に広がるのは新緑の美しい色彩と、涙に濡れた輝くほど美しい黄金の瞳。 恐怖と悲しみから、歓喜へと変化したその顔は輝くような笑顔となりました。 ああ、あの日と同じだ。僕を救い出してくれた、僕の、女神。なんて美しいのだろうと、バンダースナッチは寒さと疲労に強張る顔にどうにか笑みを乗せると、いつもと変わらぬ言葉を口にしました。 「・・・ただいま、チェシャ猫」 「お帰り、バンダースナッチ。よく頑張った、よく、戻ってきたな」 バンダースナッチは身も凍えるような水に流されながら、意識が落ちる直前に、最後の力を振り絞ってギアスを発動させていたのです。 今いるのは見覚えのある部屋でした。 嘗てはチェシャ猫を奪うためやって来たバンダースナッチに鎮静剤を打ち、軟禁していたハートのお城の医務室です。 「チェシャ猫、帽子屋は」 「ああ、わかっている。お前の着ていた服でわかった。雪の国の者に囚われていたのだろう?」 冷たい水に濡れていた体は、清潔な衣服に替えられていましたが、それまでの間あの兵士の服を着ていました。 その服からバンダースナッチと帽子屋を捉えていた者は確定したのです。 今、ハートの国のトランプの兵士たち、そして白と赤の国の兵士たちがハートの城の大広間に集結しつつありました。 バンダースナッチの着ていた服の内ポケットには帽子屋の帽子が入っていました。それはつまり、生死は解っていませんが、間違いなく少し前まで帽子屋はバンダースナッチと共にいたということです。 犯人がわかった以上大人しくしている王と女王達ではありません。北の国の協力も取り付け、雪の国との全面戦争をする準備を進めているのです。 それは今までにない大遠征。 まもなく雪の国に対し宣戦布告が行われる予定だと、チェシャ猫は説明しました。 それを聞いてバンダースナッチは大変だと慌てました。 「聞いてチェシャ猫、帽子屋からの伝言があるんだ」 万が一離れ離れになった時のために、帽子屋が話していた事を、落ちそうになる意識を必死に保ちながら話し始めました。 |