帽子屋の冒険 第10話  

そんな時です。不機嫌そうな、小さなつぶやきが聞こえてきました。
「・・・まったく、このピザ女が。困る事だらけだろう」
よく見ると、もぞもぞと帽子屋が僅かに体を動かしています。
「大丈夫?お風呂に入ったから少しは楽になった?」
「・・・大丈夫だ」
そう言いながら、帽子屋はうつ伏せになって、頭から布を被りました。
「・・・言動が一致してないよ。どうしたの?まだ体痛む?マッサージしようか?」
何日も起伏の大きな道を歩き続けた帽子屋は、今朝森で目を覚ました時から全身筋肉痛で思うように体が動きません。
なけなしの体力で無理を続けたせいで、体力もなかなか回復しないようです。
その上、転んだりぶつけたりしたせいで、体中痣だらけです。
「・・・平気だ」
でも、プライドの高い帽子屋は、人に弱みを見せようとしません。
「やせ我慢なんてしないでよ」
「うるさい!そんなことより、チェシャ猫。ジャバウォックはここに来ているのか?」
帽子屋は布から顔を半分のぞかせながら、チェシャ猫を見つめます。
「ああ、来ているがそれがどうした?」
「俺たちとジャバウォックを、俺の家に送ってくれ。ジャバウォックのアンチ・コードである、キャンセラーを試してみる」
アンチ・コードとは普通のコードと違い、誰かにギアスを与えることができたり、瞬間移動などの特殊能力は一切ありませんが、 コードおよびギアスを全て無効化できる、ジャバウォックのみが持っている特殊コードなのです。
「!!その手があったか!ジャバウォック、こっちへ来い」
ジャバウォックは足早にチェシャ猫に近寄ります。
「ジャバウォック、こいつらにキ」
「待て!ここでは駄目だ!」
帽子屋は慌ててチェシャ猫の言葉を遮ります。
反射的に体を起こそうとして、あまりの体の痛みに悶絶しました。
「そうだよ、忘れたの?僕たち全裸なんだってば!」
痛みで口を閉ざし、布に包まってプルプルと震えている帽子屋の背中をなでながら、白の騎士は訴えます。
「ああ、忘れていた。別にいいじゃないか裸ぐらい。男だろ?小さな姿で晒さなければいいんだろう?」
「よくないよ!」
あまりの暴言に白の騎士は怒鳴りました。 仕方ないなと溜息をついたチェシャ猫は、ハートの王からひょいと、白の騎士たちの入った籠を取り上げると、ジャバウォックと共に帽子屋の家へ飛びました。
その手の中にあった籠を幸せそうに見つめていたハートの王は、この世の終わりのような悲痛な表情で硬直しました。 その顔の恐ろしさに、暫くの間謁見の間が静寂に包まれました。


「・・・というわけだ」
玉座の間へ戻ってきたチェシャ猫は、ジャバウォックと白の騎士を連れていました。
白の騎士の手には柔らかな布に包まれた小さなままの帽子屋。
「・・・どういうわけなのかしら?」
ハートの女王は小首を傾げます。
はぁ、という溜息とともに、白の騎士の手に乗っていた帽子屋がもぞもぞと動きました。 白の騎士は帽子屋が落ちないよう両手で支えながら、帽子屋が座るのを手伝います。 「まったく、言葉が足りなすぎだ、チェシャ猫。ハートの女王、この小人化はコード系統の能力なので、ジャバウォックのアンチ・コードで解除が可能でした。 ただ、かなり複雑な能力のようで、複数人同時に解除することはできず、その上一度解除するとしばらくの間アンチ・コードは使用できなくなるようです」
「それで、白の騎士は元に戻ったのに、貴方はそのままなのね?」
「はい。アンチ・コードが回復するまでおそらく一週間程度掛かりますが、元に戻る事は証明されました。そこで、女王にお願いがあります」
「・・・何かしら?」
「チェシャ猫から聞きましたが、俺達のように小人化した者がいるそうですね?」
そうなのです、バンダースナッチの話から複数人をギアスで飛ばして小人化させていた事を知り、帽子屋と白の騎士を探す捜索隊と、 不思議の国の住人たちが手分けをして探しているのです。
「では、俺のアンチ・コードは最後で構いません。小人化した他の住人を優先してキャンセルしてください」
「まて、それではピザが」
「その事は考えている。食事を作れなくなる以外で、俺が困ることはない。だから、俺は最後で構わない」
考えていると言われてしまったら、チェシャ猫は何も言えません。
帽子屋は頑固なので、彼の考えを変えるのがどれだけ難しいか知っています。
「まったく、貴方って子は・・・。V.V.がバンダースナッチにギアスを与えてから行方不明になった者がどれだけいるか調べています。 無事が確認できた全員の解除が終わってから、あなたを解除するよう手配をしましょう」
「有難うございます、ハートの女王」
帽子屋はにっこりとハートの女王に微笑みます。
いつも自分は後回しにする帽子屋の性格を知っている女王は、本当に困った子ね、と溜息を吐きました。
「さて、後はバンダースナッチだな。白の騎士、俺をバンダースナッチの所へ連れて行ってくれ」
「・・・なにするの?」
白の騎士は帽子屋をバンダースナッチに近づけるのは気が進みませんでした。
「話をするだけだ。危害を加えるつもりはないし、そもそも今の俺には、誰かに何かをすることなんて不可能だ」
「君が何かをするなんて思ってないよ。・・・もう、仕方ないな。近づくのはいいけど、僕は君を手放す気はないよ」
白の騎士は、わずかに帽子屋を支える手に力を込めました。
「何を言ってるんだ?話をするだけだと言っているだろう」
帽子屋は小さな手で白の騎士の腕を叩き、早く行けと促します。
「V.V.、チェシャ猫、バンダースナッチにかけた口封じを解除してくれ」
「わかった」
「・・・うん、いいよ」
二人がコードを使うと、バンダースナッチの口を封じていた封印が解けます。
「帽子屋!なに僕のチェシャ猫に命令してるんだ!彼女は僕のだ!お前のじゃない!」
「何を言っているバンダースナッチ。彼女は私のモノでも、お前のモノでもない」
帽子屋の声が何時もより低くなり、一人称が俺から私に変わりました。
ティーパーティーでは無いのに、今ここにいるのはゼロモードの帽子屋なのです。
こんなことは滅多にありません、辺りはごくりと息をのみました。
「何を言ってる!彼女は僕のモノだ!」
「お前が勝手にそう言っているだけだ。彼女は、お前のモノではない」
「じゃあ、誰のモノだって言うんだよ!言ってみろ!僕はそいつを殺してやる!」
興奮し、大声を張り上げるバンダースナッチに対し、帽子屋ゼロは冷静に答えます。
今のゼロは手のひらサイズで二頭身。その上今は赤ん坊のように布に包まっているというのに、そんな事を忘れさせるほどの威圧感を放っています。
「彼女は彼女自身のモノだ、誰のモノでもない」
ゼロは、そんな事も理解らないのかと目を細め、バンダースナッチを睨みつけます。
バンダースナッチは一瞬怯みましたが、すぐに睨みかえしてきました。
「はぁ?何言ってんだよお前、彼女は僕の恋人で妻!伴侶は互いのモノなんだよ!」
「恋人、とは相手の了承無しになれるものなのか?妻、とは相手の意思を無視してなれるものなのか?」
「馬鹿かお前!チェシャ猫は僕が好きなんだよ!僕もチェシャ猫が大好きだ!だから僕たちは恋人同士なんだよ!」
バンダースナッチは声を荒らげ、謁見の間に響き渡るほどの大声を上げました。
この男は危険だと、白の騎士は一歩後ずさります。
バンダースナッチの視線から外すため、手の中の帽子屋を自分の体で隠そうとしましたが、帽子屋は小さな手でピシャリと白の騎士の手を叩きました。
そのことに気がついた白の騎士が帽子屋を見つめると、邪魔をするなら降ろせと訴えてきました。
うっ、と言葉に詰まった白の騎士は、何があっても僕が守るんだ!と、自分に言い聞かせ、再び帽子屋とバンダースナッチを対峙させました。
暫くの間無言で睨み合っていた二人ですが、先に静寂を破ったのはゼロでした。
「なあ、チェシャ猫。お前は本当にバンダースナッチが好きなのか?恋人になりたい、と思うほどに。」
ゼロはチェシャ猫を見つめ、回答を求めます。
「好きに決まってるだろ!ねえ、チェシャ猫、本当の事を言えばいいんだよ。僕の事を好きだ、大好きだって!」
ゼロを睨みつけた後、満面の笑みでバンダースナッチはチェシャ猫に笑いかけます。
その瞳は狂気で淀み、その笑顔は歪んでいて、背筋が凍るほどの恐怖を感じました。
チェシャ猫はびくりとその体を震わせ、反射的にバンダースナッチから目を逸らします。
逸らしたその先では、小さなゼロがチェシャ猫を見つめています。
チェシャ猫は、小さなゼロへ震える手をのばすと、ゼロはその小さな手をチェシャ猫の手に乗せました。
ごくり、とチェシャ猫は固唾をのみこみ、ゼロを見ながら一度深呼吸をしました。
そして、ゼロの小さな手を指で優しく掴みながら、バンダースナッチを見据えます。
「好き、だったよ。お前の事を弟のように、息子のように思っていた。今は、嫌いだ」
チェシャ猫はさびしく笑いながら答えます。
一瞬何を言われているのか分からないと、キョトンとした顔でバンダースナッチはチェシャ猫を見つめます。
「え?何言ってるのチェシャ猫?こいつに何か脅されてるの?だからそんな事を言うの!?」
チェシャ猫がそんな事を僕に言うはずがないと、悲痛な声で問いかけます。
「違う、これが本心だ。私は幼いお前を拾った。かつては、そう、お前の事が好きだったんだ。息子として、弟として。でも今は違う。お前が怖いよバンダースナッチ。 ああ、そうだ。私はお前が怖いんだ。お前の執着が怖い、お前の妄想が怖い、お前の盲信が怖い、お前の中にいる、お前が作り出した幻想の私が怖い!!」
チェシャ猫は、泣きそうになりながら、自分の心に巣くっていた思いを吐き出しました。
「お前は一体何を見ているんだ?お前は誰を見ているんだ?お前は私を見ていたのか?いいや、私の事なんて見ていない!見ているはずがない! お前は私を通して、お前の中の理想の誰かを私に見ているだけだ!」
いままで吐き出す事の出来なかったチェシャ猫の悲鳴が辺りに響きます。
「違う!違うよチェシャ猫!僕は君を見ていた、ずっとずっと君だけを見ていた!君の事は誰よりも僕が知っているんだ!」
「いいや、お前は何も知らない!私の事など何も知りはしない!この国にいる誰よりも、お前は私の事を理解などしていない! お前が知っている私は、お前の中にいるお前の中の妄想の私だ! お前が作り出した幻覚、幻に過ぎない!お前が誰よりも理解しているという私は、この世に欠片も存在などしていないんだ!!」
「嘘だ!チェシャ猫は僕を騙すつもりなんだ!そうやって僕の愛を確かめるつもりなの?ひどいよチェシャ猫!!」
「私は騙していない!嘘は付いていない!愛を確かめてもいない!ただ、真実を言っているだけだ!今ここにいる私が、いまここでお前を否定している私こそが、本物だ!これが私の本心だ!」
チェシャ猫は肩でゼイゼイと息をしながら、バンダースナッチを睨みつけます。
「私はお前を愛していない。お前の恋人にも妻にもなるつもりは無い。お前を愛し、恋人に、夫婦にと望んでいるというチェシャ猫は私とは別人だ。 私はかつて、お前が幼かった頃、お前の母親として、姉として、家族として、家族愛をお前に向けていた。今はそのれすらお前には向けていない」
バンダースナッチは茫然とチェシャ猫を見つめていました。
「今見ているこれが、私だ。これがチェシャ猫だ。お前のすべてを理解し、お前を愛しているという幻の私ではない、これが、本当の私だ」
「・・・ちがう・・・そんな・・・だって・・・チェシャ猫は・・・」
「お前という狂気に恐怖し、お前という狂愛に怯え、お前という凶悪に怒り狂っている。これを否定するという事は、お前は私の事を何一つ見ていなかったという事だ」
「・・・そん・・・な・・・」
それまで狂気をにじませていたバンダースナッチの表情が、まるで捨てられた子供のように怯えと悲しみを滲ませたかと思うと、ポロりとその瞳から涙がこぼれました。
その後、バンダースナッチはまるで幼子のように大声で泣き喚き始めた。
赤の王が鎮静剤を打つように命令し、薬が効いてくると、バンダースナッチはゆっくりと眠りにつき、 監視のためV.V.と赤の騎士とハートの騎士と共にバンダースナッチは医務室へと移されました。
バンダースナッチの姿が見えなくなると、チェシャ猫はその場に全身の力が抜けたかのようにぺたりと座り込みました。
「大丈夫?チェシャ」
ハートの女王が駆け寄ります。
「あ・・・ああ。大丈夫だ。・・・これはまた、ずいぶんと恥ずかしいところを見せてしまったな。穴があったら入りたいところだ」
若干顔が青ざめてはいましたが、言いたい事を吐き出せたせいでしょうか、チェシャ猫はすっきりとした表情で、笑いました。
あんなに激昂したチェシャ猫は誰も見た事がありませんでしたが、笑ったその姿をみて、みんな安心しました。
「さて、この後はどうするつもりなのかな?」
赤の王が訪ねます。
ゼロ、何時もより低く重みのある声音で答えます。
「バンダースナッチのギアスに掛けた封印を解く。チェシャ猫のギアスが戻ることで、小人化現象がおさまる可能性が高い」
「危険ではないかね?」
「V.V.とチェシャ猫、ジャバウォック、そして他のギアス能力者の協力があるなら、バンダースナッチの転移の範囲と場所は制御が可能。 封印解除後も小人化、あるいは他の変化が起きるようであれば、ギアスは全て封印する。」
「封印後はやはり追放かな?」
「封印する、しないに限らず、私が一度引き取る」
「「「「はぁ!?」」」」
不思議の国の住人は、帽子屋のあまりにも無謀な申し出に、みんな揃って驚きの声をあげました。
「待ちなさい帽子屋、それはいくらなんでも許しません!」
ハートの女王が反対します。
「僕も反対だよ!何考えてるの君は!」
白の騎士は、手の中の帽子屋に鋭い視線を向けます。
「お前、今寝ていたのか?今のやり取りを見て、どうして引き取るなんて言えるんだ!」
チェシャ猫が声を荒げて詰め寄ります。
不思議の国の住人たちも口々に否定の言葉を投げてきます。当然の反応です。
「皆が言いたい事は理解っている。だが、私はバンダースナッチをこのまま追放させる事に賛同しない。だから」
帽子屋は眉根を寄せ、目を細めてバンダースナッチが連れて行かれたほうを見つめていました。
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