オオカミの呼ぶ声 第2話

「で、お前ここで何してんだ?」

オオカミの耳を見た事がないという人間に、俺は「引っ張らないなら触ってもいいぞ」と言いながら訊ねた。
俺と同じぐらいの背恰好のそいつは、最初に掴んできた時の勢いとは違い、恐る恐る俺の耳に触れてきた。
頭上を凝視しているその瞳は綺麗な紫色で、紫陽花や朝顔の花弁を思い出させた。
さわさわと微かに触れる様に撫でるその手がくすぐったく、じっと見つめられる事が妙に恥ずかしくて、思わず耳を伏せてしまう。

「見ての通り掃除をしていた」

よく見ると、倒れた脚立の横に箒が落ちていて、その近くには水を張った洗面器と、タオルが置かれていた。

「掃除?なんで掃除なんてしてるんだ?」
「この家に住む事になったからだ」

ようやく、耳だと納得したのか、俺に触れていた手を引っ込めながら、そいつは言った。

「はぁ?俺の秘密基地に勝手に住むなよな」
「元々君の持ち家では無いだろう。ちゃんと持ち主を通して、僕が住む事になったんだ」
「持ち主って、ここはずっと空き家だぞ」
「空き家でも、ちゃんと所有者はいるものなんだよ」

そいつは、何を当たり前のことを、と呆れたような顔で俺を見た。
この家を建てたのは人間で、つまりこの建物が人間の物という事で、使ってなくても誰かの物で?それがこいつの物になったのか?

「だけど、俺の秘密基地なんだぞ。誰も住んでないから、俺の物にしたんだ」
「誰も住んでないからと勝手に住んだら、それは不法占拠で法律違反、犯罪なんだ」
「人間のルールなんて知るかよ」
「でも、この建物は元々人間の物だから、人間のルールに従わないといけない」

俺が睨みつけながらそう言っても、この人間は怯む様子もなく、淡々と答えた。
真っ白のひらひらした服を着て、貧弱そうな奴なのに、その紫の瞳は人間とは思えないほど、強い意思を宿して見える。
さっきは綺麗な花のように思えたその瞳は、今は紫水晶のように輝いて見えた。
どうしよう。こいつの事、殴って追い出そうと思ってたのに、あんな間抜けな姿を見せるから、タイミングを逃してしまった。
今からそれをやると、まるで俺がこいつに口で負けて、力でねじ伏せたようになってしまう。それはカッコ悪いから絶対に嫌だ。

「理解できたか?」

しばらく何も言わなかった俺を伺うように、そいつは首を傾げながら聞いてきた。

「・・・人間のルールは面倒でよく解らない」

俺が不貞腐れながらそう言うと「そうか。でも、そう言う物なんだよ」とそいつは言った。
何も言わずにその場で俯いていると、そいつは再び脚立を起し、その上に足をかけた。

「って、お前危ないだろ!何やってんだ!」

俺は慌てて、そいつの腕をつかみ、上ろうとするのを止めた。

「危ないと言われても、僕の背では天井に届かないのだから仕方がないだろう。今度はもっと慎重に」
「だーっ!違う!そうじゃなくて!金具ちゃんと嵌めてないだろお前!」

俺は脚立を一度横に倒し「ほら、これを、ここにこう、カチっとするんだ」と、赤い留め具をカチリと嵌めこみ、脚立を起した。

「ほら、これでもう倒れないぞ。お前頭よさそうなのに、どこか抜けてるな」

俺が脚立をいじっている姿を真剣に見ていたそいつは、その言葉にカチンと来たのか、眉を寄せ、不機嫌そうな顔をした。

「今までこんな物、使った事が無いんだから仕方がないだろう。・・・だけど助かったよ、有難う」

そいつは不機嫌な声で文句を言った後、少し言い淀んでから、花が綻ぶかのような笑顔でお礼を言った。
偉そうに生意気な口を利くそいつが、こんなに綺麗な笑顔でお礼なんて言うと思っていなかった俺は、思わずその顔を凝視した。
それがよほど恥ずかしかったのか、顔を赤真っ赤にしたそいつは、ぷいっと顔を背けると、箒を持って脚立に上った。
一番上まで上ると、真剣な顔で天井の埃を箒で払い落し始めたが、足元がふらふらとしていて、何度もバランスを崩すその姿は、怖くて見ていられない。

「あーもー解った!お前降りろ!危なっかしくて見てられるか!」
「え?うわっ!!」

俺はそいつの服を「いいから降りろ」と引っ張ると、バランスを崩したそいつは脚立から足を滑らせた。
落ちる前にその体を支え、さっさと畳の上に下ろす。

「何するんだ!」
「何するんだじゃないだろう!お前また落ちたいのかよ!いいからそれ貸せ!」

文句を言うそいつの手から箒を奪うと、脚立に上り埃を落とす。
やっぱり簡単だ。何でこいつはあんなにふらつくんだろう。

「君がする事じゃないだろう、僕がやるから降りるんだ」
「嫌だね。ここは俺の秘密基地だ、俺がやりたいようにやるんだ」
「やりたいようにって」
「そう言えば、大人はどうしたんだ?大人ならこんなの簡単に掃除できるだろ」

俺はさっきから気になっていた事をそいつに聞いた。

「大人はいない。僕一人だ」
「は?人間の子供は大人と一緒に暮らすもんだろ?なんで一人なんだよ?」

俺は箒を持っていた手を下ろし、そいつを見た。

「普通はそうだな。だが僕は普通ではいられないらしい。・・・僕は捨てられたんだよ、この家に」

捨てられた。
その言葉を言ったそいつの瞳は、泣きそうに見えた。

「捨てられたってことは、いらないってことなのか?」
「そう言う事だ。そうでなければ僕みたいな子供が一人でこんな場所に居るわけないだろう」

そいつは言いながら俯いたので、脚立の上に居る俺には、今どんな表情をしているかは解らなかった。

「ふ~ん。捨てられたのかお前」

俺の言葉に、そいつはびくりと肩を揺らした後、顔を上げ、睨んできた。

「なら、俺が拾ってもいいよな?」

なんだ、そうだったのか。俺は満面の笑みでそいつに言った。

「・・・は?」
「大人はいらないからお前を捨てた。そして俺がお前を拾った。ならお前の家は拾った俺の物でもあるよな?」
「・・・いや、それは」
「なら、今からここは俺たちの家だ」
「いいか、捨てられた、というのはあくまでも言葉の」

そいつがまた小難しそうな事を口にしようとしたので、俺は遮るように言った。

「人間のルールなんて知るか、これは俺が決めた俺のルールだ」

俺は脚立の上で腕を組み、断言した。
いくらこいつが人間のルールを持ちだそうとそんな事はもうどうでもいい。そう、俺が決めたんだから。
こいつも、この家も、人間の大人がいらないと言うなら俺の物にするだけ。
そいつは大きなその瞳がこぼれ落ちそうなほど目を見開いて、俺を見上げていた。


それが、俺とルルーシュの出会いだった。
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