オオカミの呼ぶ声 第3話

もふもふとした耳が頭にある、日本オオカミだと言い張る彼は、不安定な脚立の上とは思えないほど軽やかな身のこなしで、どんどん天井の埃を落としていった。
あっという間に天井と壁の埃を落とし、ちり取りでそのゴミを集め終わると、キラキラと翡翠のように輝くその瞳を満足げに細めた。

「よし、俺は隣の部屋をやってくるからな」

僕の返事も聞かずにあっという間に脚立を抱え、パタパタと部屋を後にした。

「まったく、勝手なやつだな」

子犬のようにパタパタと駆けまわるその姿と、くるくると変わるその表情を思わず見つめていた僕は、彼のあまりにも自分勝手な言動に嘆息したが、その顔には無意識に笑みが浮かんだ。
洗面器に張った水にタオルを浸し、ギュッと絞ると、まずは畳を拭き始める。 日本には妖怪というお化けが居ると何かで読んだ。
悪さをするモノもいれば、座敷わらしのように人と共存するモノもいるという。
人外の姿のモノもいれば人の姿をしているモノもいるし人と言葉を交わせるものもいるらしい。
スザクと名乗ったあの子供からは、僕に害を与えようと言う気配は感じられなかった。
これでもあの悪意に満ち溢れた場所で生まれ育った身だ。悪意には敏感だし、だからこそ今日まで生きていられた。
無邪気な子供という空気しか感じられない彼は、言語を解し、人の姿を取れる共存できるタイプの妖怪なのだろう。
僕よりもはるかに運動能力に優れていて、自分で狼だと言うのだから、番犬代わりになると考えれば一緒に住むのも悪くは無い。
子供の一人暮らしは、いくら田舎とはいえ危険なのだから。
この家や僕の事を自分の所有物のように言ったりするのは正直腹立たしく思うが、どんなに言葉を重ねようと僕が捨てられた事実は変わりはしない。
僕に害が無いのなら、僕を所有物だと言ってきた事は、気にするほどでもなだろう。
この家は、僕一人では広すぎるのは最初からわかっていたことだし、一人では出来ない事も、彼がいればどうにかなるのかもしれない。
そこまで考えて、僕は自分の甘さに思わず唇をかみしめた。
さっきまで自分一人で生きていくと、誰にも頼らないと決めたはずなのに、舌の根も乾かぬうちに誰かに頼ろうとしているなんて。
こんなことでは駄目だ。僕は一人で大丈夫なのだから。一人で生きるのだから。そう、彼に頼るのは、今だけだ。
そう考えていると、突然目の前にあのキラキラとした翡翠の瞳が現れた。

「ほわあぁぁっ」

突然の事に、僕は思わず後ろに体を逸らすと、バランスを崩し尻もちをついた。
その僕の様子に、俯いていた僕の顔を覗き込んでいたその瞳は、不機嫌そうに細められた。

「お前、何してんだよ」
「何って」

そう言いながら、座ったままの僕の正面に腰をおろし、その手を伸ばしてきた。

「なんで噛んでるんだよ、血が出てるだろ」

その手で僕の頬に触れると、当たり前のように顔を近づけて、僕の唇をぺろりと舐めた。 一瞬何をされたか解らず硬直してしまったが「あ、結構深いぞ、これ」と、何度もぺろぺろと舐められた事で、状況を理解した僕は反射的に両手を突き出していた。

「うわっ!」

いきなり突き飛ばされた事でバランスを崩した彼は、その場で尻もちをついた。

「!!っなっ何をするんだ!」

彼の体を突き飛ばした僕は、慌てて口元をぬぐうと、手の甲に僅かに血がついた。

「それはこっちのセリフだ!」

噛みつかんばかりの表情で、彼は怒りを露わにし、怒鳴ってきた。

「きっ、君は何をしたか解ってるのか!?」

動揺して、どもりながらしゃべる僕を見た彼はあっさりとその怒りを鎮め、今度はキョトンとした表情になった。

「何って、傷を舐めたにきまってるだろ?何でお前そんなに真っ赤になってるんだ?ゆでダコみたいだぞ?」

怒る意味が解らないと、首をかしげながら言うその表情に、ああ、そう言えば彼は狼だったのだと言う事を思い出した。
動物は、怪我をすれば舐めて治す。当たり前の事だ。
彼としては親切心で、その当たり前のことをしたのに、僕に突き飛ばされたのだ。納得できず怒るのも無理は無い。
一度気持ちを落ち着けるため深呼吸をすると、手のかかる弟に言い聞かせる様に、僕は口を開いた。

「いいか、人間は舐めて治さないし、他人の唇には触れないものなんだ」
「そうなのか?でも別にいいだろ?舐めた方が早く治るんだし?」
「そういう問題ではない。僕の傷を気にしてくれた事は嬉しいし、突き飛ばした事は謝るが、その、舐めるのは、やめてくれないか」
「人間ってめんどくさいな。なら、俺はお前を舐めてもいい事にする。これは俺が決めた俺のルールだ!」
「また俺ルールか!?流石にその俺ルールは認めないからな!」

冗談じゃない。と憤慨する僕を「いいじゃん別に」と、しばらく不満そうに見つめていたが、やがてにっこりと嬉しそうに笑った。

「この俺ルールは認めないってことは、さっきのは認めたってことだよな?」

にこにこと笑いながら話すその言葉を聞いて、僕はしまったと思った。

「なら仕方ない、今回は人間のルールに従ってやる」

彼は、偉そうに上半身を逸らせながらそう言った。
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